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太平記を歩く。 その202 「等持院」 京都市北区

シリーズ200を超えましたが、関西を中心とした『太平記』ゆかりの地は、ほぼ網羅できたんじゃないかと思っています。

というわけで、このあたりで、ひとまず一区切りにしようかな・・・と。

そこで、その節目を飾るのは、足利将軍家の菩提寺「等持院」です。


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ここ等持院は「その158」で紹介した臨済宗天龍寺派の古刹で、室町幕府を開いた足利尊氏が、興国2年/暦応4年(1341年)に「その157」で紹介した洛中の等持寺を建立し、その2年後の興国4年/康永2年(1343年)、この地に別院北等持寺を建立したことに始まるといわれます。


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開山当初は「北等持寺」と呼ばれましたが、尊氏の死後はその墓所とされ、尊氏の法名をとって「等持院」に寺号を改めたと伝わります。


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ここ等持院は紅葉の名所としても知られていますが、わたしが訪れたこの日は11月26日。

だいぶん枯れかけてはいましたが、辛うじて残っていました。


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庫裏と呼ばれる入口を潜ると、すぐに方丈(本堂)があります。


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屋根瓦には足利家の家紋(足利二つ引)が見えます。


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方丈に入るとすぐに、達磨図の衝立が目に入ります。

これ、似たような衝立が天龍寺にもありましたよね。

こちらの絵は、天龍寺の元管長で等持院の住職でもあった関牧翁の作だそうです。


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こちらは方丈から望む南側の庭園。


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方丈の回廊を奥に進むと、はなれのような建物があります。


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それがこれ、霊光殿という建物です。

実は、ここに来たいちばんの目的はここ。

この中に、尊氏が日頃念持仏として信仰していた利運地蔵菩薩(伝弘法大師作)を中心として、足利歴代の将軍木像(第5代義量と第14代義栄を除く)が、徳川家康の像と共に安置されています。

残念ながら木像の撮影は禁止だったので、建物外から中を望遠レンズでブームイン

これくらいは勘弁してください。


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左右に木像のシルエットが見えるのがわかるでしょうか?

これらの像がいつの時代に作られたものかは、説明書きなどがなかったためわかりませんでしたが、家康の像は、42歳の厄除けのために自ら作らせたものだそうです。

時代は下って幕末、文久3年(1863年)2月22日、倒幕派の志士たちによって足利尊氏・足利義詮・足利義満三代の木像の首が鴨川の河原にさらされる事件が発生しますが(足利三代木像梟首事件)、そのときの木像が、ここに安置されている木像です。

3体の首のあたりをじっくり観察しましたが、斬首された痕跡はわかりませんでした。

どうやって繋いだんでしょう?


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方丈北側に目をやると、夢窓疎石の作と伝わる見事な庭園が広がります。


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しばし庭園を散策。


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水面に映る紅葉。

ちょっと枯れかけですが。


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紅葉、紅葉、紅葉。


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庭園の一角に、「足利家十五代供養塔」と伝わる全高5m十三重塔があります。

等持院では、代々、大切に供養されてきました。


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で、庭園の片隅に樹樹に隠れるようにひっそりとある宝篋印塔

これが、尊氏の墓だそうです。


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高さ約1.5m

室町幕府の開祖の墓としては、なんと小じんまりした墓でしょう。

これまでこのシリーズで見てきた楠木正成新田義貞などの墓と比べても、ずいぶんと小さく質素なたたずまい。

どう見ても征夷大将軍の墓とは思えません。


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尊氏が死んだのは正平13年/延文3年(1358年)4月30日、自身の落胤で弟・足利直義の養子となっていた足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、洛中の等持寺で死去したと伝わります。

享年54


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『太平記』巻33「将軍御逝去事」では、尊氏の死を次のように伝えます。


病日に随て重くなり、時を添て憑少く見へ給ひしかば、御所中の男女機を呑み、近習の従者涙を押へて、日夜寝食を忘たり。懸りし程に、身体次第に衰へて、同二十九日寅刻、春秋五十四歳にて遂に逝去し給けり。さらぬ別の悲さはさる事ながら、国家の柱石摧けぬれば、天下今も如何とて、歎き悲む事無限。さて可有非ずとて、中一日有て、衣笠山の麓等持院に葬し奉る。

(病は日を追って重くなり、時とともに容態も思わしくないように見えてきたので、将軍の屋敷に仕える男女らは固唾を飲んで見守り、側近く仕える従者らは涙をこらえ、日夜寝食も忘れていました。やがて身体は次第次第に衰え、四月二十九日の寅刻(午前四時頃)、享年五十四歳にして、ついに逝去しました。それでなくても別れは悲しいものなのに、国家の柱石が砕けてしまったので、天下は今後一体どうなるのかと嘆き悲しむ限りです。しかし、いつまでも悲しんでいるわけにもいかず、中一日おいて、衣笠山の麓にある等持院に葬りました。)


ここ等持院に葬ったと伝えていますね。

さらに『太平記』はこう続けます。


哀なる哉、武将に備て二十五年、向ふ処は必順ふといへ共、無常の敵の来るをば防ぐに其兵なし。悲哉、天下を治て六十余州、命に随ふ者多しといへ共、有為の境を辞するには伴て行く人もなし。身は忽に化して暮天数片の煙と立上り、骨は空く留て卵塔一掬の塵と成にけり。

(生まれながらの武将として二十五年、向かう先は全て彼に従ってきたといえども、死を迎えるにあたってそれを防ぐ兵士はいません。悲しいかな、天下を治めて六十余州、彼の命令に従う者は多いといえども、この世を去るにあたって伴ってくれる人もいません。身は忽ちにして暮れ行く空を立ちのぼる僅かな煙となり、はかなく残った骨は僅かばかりが墓石の塵となりました。


『太平記』は南朝よりに書かれた物語ですが、尊氏の死に際しては、ひとつの時代の終わりを伝えています。


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さて、冒頭でも述べたとおり、この稿をもって『太平記を歩く』シリーズはひとまず終わりにします。

関西を中心に山陰、北陸をめぐってきた202回でしたが、日本全土に目を向けると、『太平記』ゆかりの地は、関東、東北、東海、四国、九州などにまだまだ数多くあります。

いつの日か、また続きを再開できればと思っていますが、なにぶん遠方ばかりになるため、資金と時間が許せばですが・・・。

そのときは、また、おつきあいください。




「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。

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太平記を歩く。


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by sakanoueno-kumo | 2018-02-17 09:02 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

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Commented by heitaroh at 2018-03-13 18:17
征夷大将軍として先輩に当たる鎌倉、室町の将軍に敬意を表して、江戸の将軍像は履き物を履いていない・・・という話を聞きましたが、実際にはそうやって無言のうちに江戸の将軍を貶めているような気がしました。江戸なんて認めまへんで・・・みたいな(笑)。

長い間、お勤めご苦労様でした。
シャバでしっぽりやってください(笑)。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-03-14 00:17
> heitarohさん

江戸の将軍像は履き物を履いていないということ自体、はじめて知りました。
そうなんですね。

太平記シリーズ、また気が向いたら続きやります。
そのときはよしなに。

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