幕末京都逍遥 その3 「東山霊山護国神社~木戸孝允・幾松の墓」
東山霊山のなかで、最も特別扱いとなっているのは、維新三傑のひとり、桂小五郎こと木戸孝允の墓です。
木戸は、ここ東山霊山の創建にも尽力したそうですから、当然の扱いですね。
霊山に入るとすぐに、木戸公神道碑という大きな石碑があります。
「神道碑」とは、国家に功績のあった人物の墓所参道に建てられた碑で、その人物を顕彰する意味だそうです。
明治維新以降、木戸の他には、大久保利通、毛利敬親、大原重徳、岩倉具視、広沢真臣、島津久光、三条実美の神道碑が、明治天皇の命により建立されたそうですが、京都に建てられたのは木戸の神道碑だけだそうです。
これを俗に「勅撰碑」ともいいます。
木戸の墓所は、霊山のいちばん奥の最も高い場所にあります。
立派な門構えがあり、東山霊山の奥座敷といった感じです。
「内閣顧問勲一等正二位木戸孝允墓」と刻まれています。
重厚な墓碑です。
墓石の横には、「明治三十四年5月廿六日以特旨被追陛従一位」と刻まれた石碑がありました。
木戸が逝去したのは明治10年(1877年)ですから、没後24年経って従一位の官位が贈られたんですね。
木戸がこの世を去ったのは、西南戦争まっただ中の明治10年(1877年)5月26日のことでした。
享年45(満43歳)。
死因は病死という以外に詳しいことはわかっていません。
元来、ナイーブな性格の人物だったようですから、幕末の動乱から新国家設立の過程で、相当な神経をすり減らして寿命を縮めたのかもしれませんね。
木戸は最後まで鹿児島の情勢を憂い、京都の別邸で朦朧状態のなか、訪れた大久保利通の手を握り締め、「西郷、もう大抵にせんか!」と叫んだのが最後の言葉だったとか。
木戸の場所の横には、幕末に木戸を献身的に支え、維新後に正妻となった芸姑・幾松こと木戸松子の墓があります。
松子がこの世を去ったのは、木戸の死後9年経った明治19年(1886年)のことで、44歳でした。
墓石には、「正二位」と刻まれていますね。
木戸を献身的に支えた功績ということでしょうか?
女性に与えられた官位としては最高位じゃないでしょうか?
こちらが本家本元のマツコ・デラックスですね(笑)。
ふたりは、寄り添うように東山の奥座敷に眠っています。
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by sakanoueno-kumo | 2018-02-22 23:24 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)
そうかもしれませんね。
ここ東山の霊山は、長州藩が(特に木戸が)中心となって整備した霊園だそうです。
その総監督だった木戸ですから、生前からここに眠ろうと決意していたんじゃないでしょうか。