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幕末京都逍遥 その6 「東山霊山護国神社~長州藩殉難者の墓②」

昨日の続きです。

残りは下の3名、いずれも説明するまでもない人物ですね。


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来島又兵衛以外は松下村塾の門下生で、高杉晋作以外は元治元年7月19日(1864年8月20日)に起きた禁門の変(蛤御門の変)討死した人物です。


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久坂玄瑞高杉晋作、入江九一、吉田稔麿と並んで「松下村塾四天王」と呼ばれた人物ですが、その中でも、特に鋭敏な頭脳の持ち主で、高杉とともに「松下村塾の双璧、龍虎」などと称されました。

もともと玄瑞の生家は長州藩医でしたが、若くして親兄弟と死別すると、時勢がら医学より兵学を学び、松蔭の死後は長州藩攘夷派の指導的立場になり、やがて士分となります。

禁門の変に際して、玄瑞はギリギリまで兵をすすめることに反対し、意見を主張しますが、結果的に強硬派に押されて挙兵に至り、それでもなお、朝廷への嘆願をあきらめず、惨状のなかをかきわけ、前関白の鷹司輔煕屋敷に入って帝への取り次ぎをすがりますが、輔煕はこれを拒絶。

このときすでに玄瑞の部隊は包囲されており、万策尽きた玄瑞は、共に行動していた寺島忠三郎刺し違えて自刃します。

享年25。


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長州藩きっての武闘派として知られる来島又兵衛は、若年者が多かった幕末の長州藩士のなかでは、長老格でした。

何より猛々しさを重んじる又兵衛は、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物で、藩士からの人望も厚かったようです。

禁門の変に際して、ギリギリまで慎重論を主張する久坂に対して、怒気を飛ばして論破したのがこの又兵衛で、その気質のとおり、彼が強硬派の急先鋒でした。

変当日の又兵衛は、風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて会津藩の守る蛤御門に猛然と攻めかけ、一時は会津藩を破り去る寸前までいきますが、薩摩藩の援軍が加わると劣勢となり、壮絶な死を遂げます。

享年47。


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そして最後は、高杉晋作

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と称された幕末の風雲児・高杉晋作ですが、彼は他の志士たちと違ってあまり藩の外に出ることは少なく、藩外での攘夷活動といえば、英国公使館焼き討ち事件ぐらいでした。

したがって、禁門の変にも参加していません。

しかし、藩内においては、百姓町人を起用した奇兵隊創設をはじめ、少数でクーデターを成功させた功山寺挙兵、丙寅丸で幕府艦隊に夜襲をかけて幕府軍を敗走させた四境戦争など、風雲児の名をほしいままにする奇想天外な活躍を見せます。

しかし、倒幕を目の前にした慶応3年4月14日(1867年5月17日)、肺結核を患いこの世を去ります。

享年29。

なぜ、山口で死んだ晋作の墓が東山にあるかというと、ここは言わば幕末の志士たちの合祀場所であり、すべてが納骨されているわけではありません。

晋作の墓は山口県下関市に立派なものがありますし、他の志士たちも、ここ以外に墓がある者が多くいます。

言わば、幕末版靖国神社のようなものですね。


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長州藩士は他にも200人以上の墓碑が並びます。





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by sakanoueno-kumo | 2018-03-01 02:19 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2018-03-20 11:37
晋作の墓は萩にもあります。
吉田松陰の墓の近くで、こちらはおそらく、分骨されたのではないかと。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-03-21 00:46
> heitarohさん

でしょうね。
ここに眠る志士たちの多くが、他にも墓があります。
ここは、言ってみれば靖國神社のような場所です。

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