西郷どん 第9話「江戸のヒー様」 ~西郷はじめての江戸行きと、御庭方役拝命~
嘉永7年正月21日(1854年2月18日)、西郷吉之助(隆盛)は主君・島津斉彬に付き従って江戸に向かうべく鹿児島を発ちます。西郷はこの少し前に藩から中御小姓、定御供、江戸詰を命じられていました。父が勘定方小頭だったことを思えば、この人事は大抜擢だったといえます。その大抜擢を命じたのが、他ならぬ斉彬だったといいます。
その伝承によると、このとき斉彬は近臣に対して、「今回の供の者のなかに西郷吉之助という者がいるはずだが、その者はどいつだ?」と尋ねたそうで、近臣が「あそこにいる大きな体の者が西郷でございます」と答え、斉彬はこのとき初めて西郷を見たといいます。斉彬は西郷が提出した建白書を読んでその名を知り、西郷という人物に興味を持っていました。建白書に書かれていた内容そのものは、斉彬からすれば特に目を瞠るものではありませんでしたが、それを藩主に対して堂々と主張する勇気と誠意に対して、見どころがありそうな若者と見込んでいたといいます。
この逸話は、明治28年(1895年)に刊行された勝田孫弥の『西郷隆盛伝』、大正15年(1926年)に刊行された『大西郷全集』などに記された話で、また、海音寺潮五郎の史伝『西郷隆盛』でも紹介されています。この話が事実かどうかはわかりませんが、このとき、水上坂で休憩をとったというのは当時の家臣らの日記にも見られることから、事実だったようです。西郷の建白書を読んで斉彬自身が西郷を抜擢したという話が本当ならば、水上坂でのエピソードも実話だったと見ていいんじゃないでしょうか。
江戸に着いて1ヶ月ほどが過ぎた嘉永7年4月、西郷は「徒目付兼御庭方役」を命じられます。このうち「御庭方役」は、幕府の「御庭番」に倣って斉彬が新設した役職だったといいます。その職務内容は、簡単にいえば斉彬の秘書のような務めでした。
石高72万石の大藩だった薩摩では、数千人の家臣団がいて、その家格制度も厳格で、本来であれば、西郷のような下級の家臣は藩主と直接言葉を交わすことなどできませんでした。しかし、門閥にとらわれず広く有能な人材を登用したいと予てから考えていた斉彬は、西郷の人物を見込み、御庭方役に抜擢して「偶然、庭先で見つけた御庭方役の者に話しかける」という方法を思い立ち、西郷を側に置いたのでした。よほど西郷を見込んでいたのでしょうね。ここから、西郷は斉彬からマンツーマンで教育されることとなり、単なる下級の田舎侍が、一流の国士へと成長していくことになるんですね。この二人の出会いがなければ、幕末史はずいぶんと違ったものになっていたことでしょう。まさしく運命の出会いでした。
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by sakanoueno-kumo | 2018-03-05 01:12 | 西郷どん | Trackback(1) | Comments(6)
皆さんこんばんは。今回は今年の大河ドラマ『西郷どん』第6~10回の感想です。まずはあらすじ。新藩主島津斉彬(渡辺謙)主催の御前相撲で斉彬を投げ飛ばした西郷吉之助(鈴木亮平)は牢に入れられてしまう。そこで出会ったのは謎の言葉を話す男(劇団ひとり)。牢役人に暗殺... more
この点、確かに、私の知り合いの鹿児島人にはかつてのような剽悍さとは縁遠い、優しい人が多く・・・。
私は司馬遼太郎が言うようなだけの理由では無いと思いますが、末裔としてはどうお考えになりますか?
末裔ですけど母方ですので、それほど詳しくありません。
ただ、たしかに叔父たちは口数が少なくて優しい人が多かったかもしれません。
でも、祖父は無口でしたけど怖かったですよ。
祖父も曽祖父も高祖父の警察官で、子供の頃はわかりませんでしたが、いま考えれば、これも薩摩閥の影響だったんだなあと気付かされます。
まあ、薩摩人といってみ、長渕剛からサンシャイン池崎までいますから、一概には言えないかと。
鹿児島人が凶暴で無くなったのは戦後のことなんでしょうね。
そうなんですね。
主役は川路でしょうか?
楽しみしています。
ちなみに、おふくろの家の家系図を見ると、高祖父の叔父にあたる人が西南戦争で西郷軍に与して死んでいます。
叔父、甥の関係ですが、年は近かったようで、あるいは、親族で銃を向け合うようなことがあったのかなぁと想像しています。
だったらスゴイですね。
なにぶん子供の頃に聞いた話なので、警察官だったということ以外、何も知りません。
なので、西南の役に従軍していたかどうかもわかりませんし、従軍していたとしても、政府軍、西郷軍のどちらに与していたかも知りません。
薩摩にいた警察官の多数が私学校党でしたしね。
祖父や叔父が生きていれば、いろいろ聞けたかもしれませんが、なんせ、現在80歳のおふくろがずば抜けた末っ子で、皆、死んでしまっているので。
おふくろに聞いても、「西南戦争って、日露戦争より昔?」ってな具合の人ですから(笑)。
いまのわたしが情報を知りえるのは、家系図のコピーだけです。