幕末京都逍遥 その13 「幕末志士葬送の道」

「その1」で紹介した維新の道の一筋南に、同じく東山霊山に通じる坂道があります。

ここは、「幕末志士葬送の道」と呼ばれ、坂本龍馬中岡慎太郎をはじめ、東山霊山に葬られた多くの志士たちの棺が運ばれたルートと伝わります。


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高台寺から清水寺に向かう有名な二年坂の途中を東に折れて進むと、「幕末志士葬送の道」と書かれた看板が目に入ります。


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そこからもうちょっと坂を上ると、石碑と説明板が。


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説明板によると、この道は、当地の東突当たりにある霊鷲山正法寺の参道で、「霊山正法寺道」ともいうそうです。

その正法寺の境内に、文化6年(1809年)霊明社(現在の霊明神社)が創建され、そこで神道による葬式が行われていたそうです。

江戸時代は徳川幕府の宗教政策によって原則すべての国民が仏教徒とされていましたが、幕末に入り、勤皇の志士たちは天皇家と同じく神道を信じる傾向にあったんですね。

それで、幕末の動乱で命を落とした勤皇の志士たちは、この道を通って霊明社に運ばれ、霊明社で神道によって埋葬祭祀されたというわけです。


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説明板の記載をそのまま引用すると、文久3年7月29日(1863年9月11日)、長州系志士である土佐の吉村太郎が、前日に亡くなった友人宮地宜蔵の埋葬祭祀を依頼したり(同日付村上都平宛吉村虎太郎書翰)、元治元年3月4日(1864年4月9日)、長州の久坂義助(玄瑞)が、先祖の永代供養を任せたほか(同年3月25日付妻宛書翰)、同年6月7日(1864年7月10日)、池田屋事件で亡くなった吉田稔麿らの遺体を長州屋敷が埋葬したそうですが、これらはほんの一例ですだそうです(同年6月13日付里村文左衛門ほか宛塩屋兵助ほか書翰)。


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「幕末志士葬送の道」の半分は階段です。

わたしが訪れた平成29年(2017年)8月は、道の北側が工事されていて、養生壁に囲われていました。

景観としては、少し残念。


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この日も二年坂は観光客でいっぱいでしたが、少し脇道にそれたこの道を通っていたのは、地元の人以外は私だけだった気がします。

ここを龍馬や慎太郎たちの遺体が通ったんですよ。

もうちょっと訪れる人がいてもいいですよね。

坂の上から見下ろすとこんな感じ。


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さて、次稿では「幕末志士葬送の道」を上ったところにある霊明神社を紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-14 00:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(4)  

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Commented by heitaroh at 2018-03-20 11:45
初めて知りました。
観光協会ももう少し告知してくれないと県外の客は知らないよ・・・と思いましたが、でも、こんな所、誰も人がいないのがいいわけであって。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-03-21 00:48
> heitarohさん

そうでしょ。
ほとんど知られていないと思います。
1筋変われば観光客でわんさか賑わう通りなんですけどね。
Commented by heitaroh at 2018-03-23 12:02
あれ?今不意に思い出しましたけど、行ったかも。
勘違いかもしれませんが。
38歳くらいの真冬の1月に延々とこういう所を登っていったような・・・気がします。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-03-23 23:47
> heitarohさん

それはまたずいぶんと昔ですね。
たぶん、その頃は「志士葬送の道」なんて名称はついてなかったと思います。
わたしがはじめてこの道を通った10年ほど前は、「龍馬坂」と呼ばれてましたから。
石碑も最近建てられたものです。

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