西郷どん 第11話「斉彬暗殺」 ~虎寿丸の死去と斉彬毒殺説~

 嘉永7年閏7月24日(1854年9月16日)、島津斉彬の五男・虎寿丸死去します。わずか数えの6歳でした。斉彬には計6男5女の子供がいましたが、10代まで成長したのは三女・四女・五女のみで、長男から四男までの男児はすべて3歳までに早逝しており、ただひとり、虎寿丸だけが6歳まで成長していました。それだけに、虎寿丸の死は斉彬にとって大きなショックだったに違いありません。


e0158128_20010110.jpg 虎寿丸の死については、当時の記録によると、死去する前日までは普通に手習いなどをして過ごしていたのに、突然発熱して下痢が治まらず、翌日の夜に死去したとあります。後世の目で客観的に症状を見れば、死因は当時流行していた疫痢のためだったと考えられますが、当時の斉彬周辺の者たちはそうは思わず、これは斉彬の世子誕生を望まない勢力の呪詛だと思い込みます。かつてのお由羅騒動における藩内の勢力争いは、斉彬が藩主となった今なお続いていました。当時は幼子が亡くなるということは珍しくありませんでしたが、それでも、長男から五男まですべてが相次いで亡くなるという不幸が続くと、さすがにそう思わずにはいられなかったでしょう。斉彬自身もそう思っていたかもしれません。


 そんななか、虎寿丸の死から約1週間後、今度は斉彬が病に倒れます。症状は胃痛だったとも胸痛だったともいいます。おそらく、虎寿丸の死の心労がたたったのでしょうね。たったひとりの息子が亡くなってしまったわけですから、無理もありません。このとき庭方役を務めていた西郷吉之助(隆盛)も、よほど心配だったようで、嘉永7年8月2日(1854年9月23日)付けで鹿児島にいた友人の島矢三太に送った書簡のなかで、虎寿丸の死を報告するとともに、次のように記しています。


「先々月晦日より、太守様俄に御病気、一通りならざる御煩い、大小用さえ御床の内にて御寝も成らせられず、先年の御煩いの様に相成る模様にて、至極御世話遊ばされ候儀に御座候」


e0158128_15131310.jpg 斉彬の身を案じた西郷は、「西郷どん紀行」で紹介されていたように、目黒不動尊(瀧泉寺)に参詣して斉彬の回復を祈願しました。そして、その怒りの矛先をお由羅たちに向け、同志の有村次左衛門大山格之助(綱良)とともに、お由羅一派の打倒を誓いあったといいます。このときの心境も、同書簡に記されています。


「つらつら思慮仕り候ところ、いづれなり奸女をたおし候ほか、望みなき時と伺い居り申し候。御存のとおり、身命なき下拙に御座候えば、死することは塵埃の如く、明日を頼まぬ儀に御座候間、いづれなり死の妙所を得て、天に飛揚いたし御国家の災難を除き申したき儀と、堪えかね候ところより、あい考えおり候儀に御座候。心中御察し下さるべく候。

実に紙上に向かって、この若殿様の御儀申し述べがたく、筆より先に涙にくれ、細事におよび能わず候。眼前拝み奉り候ゆえ、尚更忍び難き、只今生きてあるうちの難儀さ、却って生を怨み候胸に相成り、憤怒にこがされ申し候。恐惶謹言。」


 お由羅のことを「奸女」と呼び、命に代えてもこれを倒すほかないと、過激な発言をしています。若い頃の西郷は、後年のイメージとは違ってかなりの激情家だったことが窺えますね。それほど、虎寿丸の死と斉彬の病は、西郷にとって大きな衝撃だったのでしょう。西郷は同志とともにお由羅一派の斬奸計画を具体的に進め始めますが、その後、病が回復した斉彬にそのことが知れ、逆鱗常ならざる怒りを受けて、やむなく計画は中止するに至ったと伝えられます。このあたり、ドラマでは少しアレンジして描かれていましたが、概ね伝承にそった展開でした。


 ちなみに、ドラマでは毒殺を疑っていた西郷でしたが、当時の記録では、その疑いは確認できません。あくまで「呪詛」の疑いでした。斉彬の毒殺説が囁かれはじめるのは、斉彬の死後になってからのことです。学問的には否定されている毒殺説ですが、作家・海音寺潮五郎氏は毒殺説を支持しています。ドラマでは、斉彬の膳の焼魚にヒ素が混入されていたと描かれていましたが、おそらく、これも海音寺氏の著書『西郷隆盛』を参考にしたものでしょう。以下、海音寺氏の推理を抜粋します。


 「人を、しかも一藩の主を毒殺するということは、ありそうもないことと、現代人には思われる。しかし、江戸時代には往々行われている。現代になって、何かの必要があって江戸時代の諸藩主の墓を発掘した場合、遺体を調査してみると、毛髪や骨から多量の砒素が検出されることが、よくあるのである。「君は一代、お家は万代」とか、「君を以て尊しとなさず、社機をもって尊しとす」とかいうようなことばは、江戸時代の武士の常識であった。お家万代のためにならないと見れば、殿様を無理隠居させたり、巧みに毒殺したりということは、よくあったことなのである。斉形もその手にかかったと、ぼくは推理しているのである。・・・(中略)

 ぼくはこの時、斉彬に盛られた毒は亜砒酸系のものであったろうと推察している。下痢を伴う腹痛があり、心臓が衰弱するというのが、この毒薬の中毒症状である。斉彬は手製の鮨を蓋物に入れて居間の違い棚にのせているのが常であったから、これに毒薬を投ずるのはきわめて容易だったはずである。」


 この推理があたっているかどうかはわかりませんが、十分にあり得る話かもしれません。もっとも、この推理は今回の病のときではなく、この4年後、斉彬が急逝したときのことです。今回のドラマではどのように描かれるのか、楽しみにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-03-19 21:31 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

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Commented by heitaroh at 2018-03-20 11:06
ひーさまは品川で飲んでましたが、薩摩はまあ近いからともかく、江戸城からだとひーさまは結構、遠いんじゃないですか?まあ、遠いから面が割れてないってことなんでしょうが。
川船で乗り付けてましたが、運河か何かあったんでしたっけ?
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-03-21 00:27
> heitarohさん

お江戸の地理には詳しくないのですが、言われてみればそうですね。
運河があったかどうかは知りませんが、ドラマの設定上では必要だったんでしょう。
髷まで町人風にして、遠山のひーさまか暴れん坊ひーさまですね。

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