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幕末京都逍遥 その21 「明保野亭」

観光客で賑わう東山の三年坂(産寧坂)に、「明保野亭」という会席料理店があります。

ここは、幕末は旅館を兼ねた料亭で、攘夷派の志士たちの密議の場として多く利用されていたといいます。

特に土佐系の志士たちによく利用され、坂本龍馬の京での定宿のひとつだったともいわれ、司馬遼太郎『竜馬がゆく』でも、たびたび登場する場所です。


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現在の店構えはこんな感じ。

もっとも、当時の明保野亭の場所はここよりやや東北位置にあったといわれています。


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店頭のメニュー板には、龍馬の写真が。

メニューの中には「竜馬御膳」なるものがあります。

「龍馬」とつければ、なんでも商売になるんですね。


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藍色の麻の暖簾が、京都らしい風情を醸し出しています。


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入口の前には古い井戸の跡が。

これは幕末当時からあったものでしょうか?


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せっかくなので、「竜馬御膳」を食しました。

3,500円。

まんまとお店の策略にハマってしまっています(笑)。


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ここ明保野亭は、元治元年6月10日(1864年7月13日)に起きた明保野亭事件の舞台でもあります。

明保野亭事件とは、池田屋事件残党探索を行なっていた新選組に応援として派遣された会津藩士の柴司が、ここ明保野亭に長州系浪士が潜伏しているとの情報を得て踏み込み、現場にいた土佐藩士・麻田時太郎を長州系浪士と思い込んで襲撃し、負傷させた事件です。

当初は柴の行為は会津藩から正当な職務行為と認定されましたが、その後、負傷した麻田が土佐藩から士道不覚悟として切腹させられたため、土佐藩士の一部が不公平と反発して事態は紛糾、会津藩と土佐藩の衝突になりかねない事態となり、これを重く見た柴は、明保野亭事件の責任を自発的に取るかたちで自決を決意し、2日後の6月12日に、兄の介錯で切腹しました。

享年21。

これにより、会津藩と土佐藩の衝突は回避されました。

柴の葬儀には、会津藩士をはじめ新撰組隊士たちも参列して、その死を惜しんだといいます。

龍馬のメニュー看板を見てこのお店に続々と入ってくるお客さんたちは、明保野亭事件のことはきっと知らないでしょうね。

店内にも、事件を紹介する説明板などはありませんでした。

坂本龍馬は宣伝に使えても、柴司は宣伝にはならないようですね。

少し気の毒な気がしないでもないです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-03-27 23:58 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2018-04-12 20:12
土佐藩士は髪型でわかると聞きましたが、そこまで見なかったんですかね。
私は何年か前に長崎の史跡料亭に行きましたよ。
坂本龍馬がつけた刀傷はまあ、ご愛敬としてイカルス号事件の現場となったところだけに、福岡人としては感慨がありました。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-04-13 17:18
> heitarohさん

髪型の件、わたしも何かで読んだことがありますが、それってどの程度のレベルで判別がついたのでしょう?
柴司はこのとき若干20歳の若造で、上京して間もなかったでしょうから、自身の会津藩士かどうかは区別できたかもしれませんが、土佐藩士と長州藩士の違いなんて、わからなかったんじゃないでしょうか?

長崎の史跡料亭って、「花月」ですよね。
わたしは龍馬関連の史跡では、長崎だけは行ったことがないんですよね。
ていうか、長崎県自体、若い頃に一度行ったことがあるだけで・・・。
龍馬ファンとしては一度機会を見つけて行きたいのですが、関西から長崎県はなかなか遠い存在で・・・。

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