幕末京都逍遥 その24 「中岡慎太郎寓居跡(書林菊屋跡)」
坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃された近江屋跡の石碑から河原町通りを挟んで斜め向かい側に、「中岡慎太郎寓居之地」と刻まれた石碑があります。
ここは、土佐藩御用達の書林菊屋(鹿野安兵衛宅)があった場所で、そこに慎太郎は身を寄せていました。
以前、ここを訪れたときは、あぶらとり紙のお店だったのですが、今回訪れたときには、人気キャラクター「ぐでたま」のショップになっていました。
見てくだい、この石碑と「ぐでたま」のミスマッチを(笑)。
龍馬と慎太郎が近江屋で暗殺された当日、龍馬に鶏肉を買ってくるように言付けられたために難を逃れた峯吉という少年がいますが、その峯吉はここ菊屋の息子です。
その峯吉が事件発生後の第一発見者となり、その後、土佐藩の田中光顕、谷干城らが現場に駆けつけるのですが、この峯吉の証言というのが、矛盾点が多くて謎めいています。
何より不可思議なのは、龍馬たちの死を知った峯吉は、すぐさま裸馬に飛び乗って陸援隊屯所まで報告に行ったという点です。
陸援隊屯所は近江屋から4kmほど北にありました。
なぜ、目と鼻の先に土佐藩邸があったのに、わざわざそんな遠くまで報せに行ったのでしょう?
龍馬暗殺の実行犯とされる今井信郎の供述では、「襲撃現場に書生がいた」との証言があり、また、同じく実行犯とされる渡辺篤の証言にも、「現場に13、4歳くらいの少年がいたが、机の下に首を突っ込んで怯えており、子供だったのでそのまま見逃した」とあります。
これらの史料から、歴史家・菊池明氏はその著書のなかで、実は峯吉は襲撃の際、現場にいたのではないか、という大胆な推理をされています。
その上で、なにか大きな秘密を知ってしまったのではないか・・・と。
現在伝わる龍馬と慎太郎の襲撃時の話は、事件発生後に現場に駆けつけた田中光顕や谷干城らが、意識のあった慎太郎から聞いた話しだと言われていますが、自らも襲われて瀕死の重症を負っていた慎太郎としては、あまりにも克明過ぎる証言をしています。
龍馬はまず初太刀で額を横なぎに斬られて、床の間に置いていた刀を取ろうとした際に背中を斬られ、刀を手にして鞘ごと相手の太刀を受け止めるも、そのまま額に太刀を受け、これが致命傷となって死んだ・・と。
自分も襲われているのに、そんなに詳しく観察できるものでしょうか?
本当に慎太郎が語った話しなんでしょうかね。
実は、証言したのは峯吉だっだとか?
維新後、峯吉は明治10年(1877年)の西南戦争で、当時、熊本鎮台司令長官だった谷干城のはからいで、会計軍夫として従軍しています。
一介の本屋の息子が、10年後には政府軍の会計軍夫です。
なんか、匂いませんか?
近江屋側から見た中岡慎太郎寓居跡です。
当時の河原町通りはこんなに広くなかったでしょうから、ほんと、近江屋の目と鼻の先だったわけです。
行列が出来ているのは、「ぐでたま」ショップに並んでいる人たち。
あの人たちは、ここが慎太郎の寓居跡だなんて知らないでしょうね。
あの行列の前で石碑の写真を撮るのは、結構恥ずかしかったです(笑)。
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by sakanoueno-kumo | 2018-03-31 20:57 | 幕末京都逍遥 | Trackback(1) | Comments(0)
親愛なるアッティクスへ前回、坂本龍馬暗殺事件の実行犯について触れましたが、では、気になる黒幕は・・・となると、ここでも薩摩説、長州説からグラバー説、勝海舟説まで色々あるようで、最近では実行犯である京都見廻組の上部組織である会津藩説が定説となりつつあるようです。この点は、私も「史実とは案外に面白味に欠けるもの」という考えから、肯首するに何らやぶさかではないのですが、ただ、最近、以前は歯牙にもかけなかったある説が妙に気にかかっています。後の三菱グループの創始者・岩崎弥太郎は坂本とは同郷でありながら殆ど面...... more