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幕末京都逍遥 その27 「本間精一郎遭難之地」

土佐藩邸跡の石碑が立つ場所から木屋町通を挟んで真向かいのあたりに、「本間精一郎遭難之地」と刻まれた石碑があります。

文久2年閏8月20日(1862年10月13日)夜、勤王の志士・本間精一郎はここで斬られたと伝わります。


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本間精一郎は越後の商家に生まれ、江戸に出て勘定奉行・川路聖謨に仕えました。

江戸では清河八郎らと親交を結び、安政の大獄後は清川より先に京都にのぼって尊王攘夷運動に身を投じます。

どの藩にも属さなかったので自由に行動することができた本間は、尊王攘夷思想の急進派とされていました。

しかし、才知がするどく勝気な気性だったため、しばしば同志を見下した態度を見せることがあったといわれ、いつしか同志間で疎まれるようになり、同志の凶刃に倒れます。


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実行犯は土佐藩士の岡田以蔵、薩摩藩士の田中新兵衛らだったと言われます。

いずれも「人斬り以蔵」「人斬り新兵衛」と呼ばれて恐れられた剣客ですね。

他にも、平井収二郎、島村衛吉、松山深蔵、小畑孫三郎、弘瀬健太、田辺豪次郎がいたと言われますが、正確なことはわかりません。

『伊藤家文書』によると、当日、本間は料亭から酔って退出したところを数人の男に取り囲まれて両腕を押さえつけられ、刀と脇差を取り上げられながらも激しく抵抗して格闘し数名を怯ませたものの、わずかな隙にわき腹を刺され、瀕死のところにとどめをさされて斬首されたといいます。

その後、遺体は高瀬川に投げ込まれました。


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これがその高瀬川です。

もちろん、同時はこんな整備された川ではなかったでしょう。


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以蔵や新兵衛らが行った暗殺は、主に佐幕派の要人が対象で、「天誅」と称した政治テロだったのですが、この本間殺しに関しては、いわゆる同志討ちで、他の暗殺とは少し様相が違っています。

以蔵のテロ活動を陰で操っていたのは、土佐勤王党の首魁・武市半平太だったと言われますが、この本間殺しに関しては、武市は関わっていなかったかもしれません。

もっとも、別の説では、本間が幕府と通じているのではないかと疑われたことで「天誅」の裁きを受けたとも言われますが、これも定かではありません。

明治維新後、政府は尊王攘夷派として活動した本間に、従五位の官位を送っています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-04 23:02 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

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