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幕末京都逍遥 その29 「佐久間象山寓居之跡」

木屋町通り三条と木屋町御池の間に、佐久間象山寓居之跡があります。

現在はビルとビルの間にある有料駐車場の入口脇に石碑が建つのみとなっています。

写真のとおり、看板と店舗の壁の間にあって、見つけるのに苦労しました。


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文化8年(1811年)、信濃国松代藩士の家に生まれた佐久間象山ですが、後世には松代藩士としてのイメージはあまり知られず、幕末きっての知識人として高名ですよね。

象山は、儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術と称し、この2つの学問の融合をはかり、早くから海防の必要性を説き、開国を論じ、公武合体を説きました。

彼の論じるところは、分裂した国論を統一し、それによって国権の伸長をはかり、五大州をわが手に収め、その盟主となって全世界に号令するという、実に気宇壮大なものでした。

そんな象山の知識を吸収しようと、全国各地の優秀な人材が彼のもとに集いました。

象山の門弟からは、吉田松陰勝海舟をはじめ、橋本左内河井継之助山本覚馬坂本龍馬など、のちの日本を担う人物が数多く輩出されています。

彼がこの時代の先覚者として、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことは紛れもない事実でしょう。


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嘉永7年(1854年)、来航したペリー艦隊に乗り込んで密航を企てた門弟の吉田松陰に連座して、象山も蟄居を命じられます。

その後、約8年間、郷里である松代での蟄居を余儀なくされますが、その罪が解かれた元治元年(1864年)3月、一橋慶喜(のちの第十五代将軍・徳川慶喜)に招かれて上洛し、朝廷内に公武合体論開国論を説いてまわります。

そのとき、この地に居を構えていたようです。

しかし、当時の京都のまちは、前年の「八月十八日の政変」によって尊攘派は表立った行動ができなくなっていたとはいえ、未だ尊攘派志士たちが数多く潜伏しており、勢力の奪還をはかっていました。

そんななかを、象山は馬上洋装で都大路をさっそうと闊歩していたといいますから、殺してくれと言わんばかりの姿ですよね。

案の定、元治元年7月11日(1864年8月12日)、このすぐ近くで肥後の攘夷志士・川上彦斎らに襲撃されて落命します。

暗殺のくだりは、また次稿にて。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-06 22:41 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

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