幕末京都逍遥 その37 「三条大橋擬宝珠の刀傷」

池田屋跡から西へ200mほどいったところにある三条大橋擬宝珠に、池田屋事件の際についた刀傷が残っていると知り、やってきました。


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鴨川に架かる橋は五条大橋や四条大橋などたくさんありますが、その中でも特に人通りが多い橋が三条大橋で、この日も多くの観光客や買い物客で賑わっていました。


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刀傷があるとされる擬宝珠は、西から2つめにあります。


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これがその刀傷

斜めに2本の傷があります。

まあ、刀傷として見ればそう見えますし、ただの傷といえばそうも見えます。

こういうものは、そう信じて見るしかないですね。


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事件の歳、池田屋に踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で、他の新選組の隊士は外を固めていました。

この刀傷が誰の刀によってつけられたものかはわかりませんが、池田屋を脱出にて屋外で斬られた志士もいたので、おそらく、そのときの斬り合いでついた傷でしょうね。

まあ、本当に池田屋事件の傷ならば、ですが。

ちなみに、屋内に踏み込んだ沖田は戦闘中にに倒れて戦線から離脱し、藤堂は油断して鉢金を取ったところでを斬られ、血液が目に入って戦闘不能となり、戦線離脱していますので、おそらく2人の刀ではないでしょう。

たぶん、あまり有名どころの刀傷じゃなさそうですね。


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三条大橋は東海道五十三次の西の起点として、歴史にも多く登場する橋です。

また、三条大橋の下の三条河原は、かつては処刑場や処刑後の晒し首の場として知られたところですね。

有名なところでは、石川五右衛門釜茹でになったのもここで、豊臣秀次の一族の首や、石田三成の首もここ三条河原に晒されました。

そして幕末、慶応4年4月25日(1868年5月17日)には、関東の板橋で斬首となったあと、塩漬けにして京都まで運ばれた近藤勇の首もここに。

池田屋事件で名を馳せた近藤の首は、わずか4年足らずで200mほど先の三条河原に晒させることになったわけです。

薩長軍にしてみれば、わざわざ関東から運んでまでも、近藤の首を京都に晒すことに大きな政治的意味があったのでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-19 23:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

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