幕末京都逍遥 その39 「久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡碑(法雲寺)」
「その33」で紹介した長州藩邸跡のホテルオークラから200mほど北上したところに法雲寺というお寺があるのですが、その入口に、「久坂玄瑞 吉田稔麿等 寓居跡碑」と刻まれた石碑があります。
長州藩邸がこの近くにあったことから、当時、このあたりには多くの長州藩士が居住しており、法雲寺もそのひとつとして使用されていました。
文久2年(1862年)7月、久坂玄瑞は同志らと共に公武合体論者の長井雅楽を殺害しようと計画しますが、失敗したため家老の浦靭負に自首し、同年8月4日、謹慎処分となります。
その謹慎の場所が、ここ法雲寺だったと伝わります。
ともに謹慎となったのは、寺島忠三郎、野村和作(のち靖)、堀真五郎、福原乙之進でした。
説明板によると、久坂らの謹慎中には、浦の家臣である秋良敦之助やその子息・秋良雄太郎、赤祢幹之允(武人)、世良修蔵も慰問したほか、松島剛蔵(小田村伊之助の実兄)らも訪れています。
また、同年7月17日には、万延元年(1860年)から亡命生活を送っていた吉田栄太郎(のちの稔磨)が、伏見街道で世子毛利定広(元徳)に自首し、ここで謹慎生活を送っています。
そのことは、久坂が萩に住む妻・杉文(吉田松陰の妹)に宛てた手紙に書かれています。
本堂です。
ここ法雲寺の伽藍は禁門の変の戦火を免れたそうで、現存の本堂・書院・台所は、当時のものだそうです。
なので、ここに久坂らが居住していたということですね。
吉田稔麿は同年閏8月13日に謹慎が解かれ、久坂らも同年9月12日に同じく謹慎が解かれ、ここを去りました。
中老の暗殺未遂でも、わずか1ヵ月余りの謹慎で済んじゃうんですね。
この緩さが、幕末の長州藩の若者を過激にしたのかもしれません。
冒頭に紹介した入口の石碑の側面には、「此南 池田屋事件 望月亀弥太終焉伝承地」と刻まれています。
次稿では、その場所を紹介します。
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by sakanoueno-kumo | 2018-04-22 00:49 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)