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幕末京都逍遥 その41 「吉田稔麿終焉の地(山本覚馬・八重邸跡)」

「その33」で紹介した長州藩邸跡の碑のあるホテルオークラ前の三条通と河原町通の交差点を挟んで対角にあるスギ薬局の前に、「此付近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地」と刻まれた石碑があります。

元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件で、長州藩士・吉田稔麿がこの付近で落命したと伝えられます。


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吉田稔麿は久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一と並んで「松下村塾四天王」と称された人物で、4人のなかではいちばん年下でした。

師の吉田松陰才気鋭敏な稔麿を高く評価しており、高杉晋作を「陽頑」と評したのに対し、稔麿を「陰頑」と形容しています。

とても無口で勤勉な性格だったようです。

池田屋事件のあった当日、稔麿は会合に出席していましたが、一度屯所に戻るために席を外し、しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討死したとされています。

ドラマや小説などで描かれる稔麿の最期は、池田屋襲撃の事態を長州藩邸に知らせるべく現場から離脱するも、藩邸の門は開られることなく、門前で自刃するというものが多いと思いますが、最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも、この辺りで会津藩兵多数に遭遇し、討死した、とされていいます。

前者の説は、前稿で紹介した土佐藩士・望月亀弥太の最期と酷似しており、それと混同されて伝わったのかもしれません。


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石碑の別の面には、「此隣地山本覚馬 八重邸宅跡」と刻まれています。

山本覚馬は幕末の会津藩士で、明治維新後は京都府顧問、京都府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した人物で、八重はその妹で同志社英学校(現同志社大学)の創立者である新島襄の妻となった女性。

2013年NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公ですね。

山本覚馬は賊軍となった会津藩士だったため中央政府には出仕しませんでしたが、その能力を買われて京都府庁に出仕し、東京に遷都して荒廃しかけていた京都の活気を取り戻すために力を尽くした人物です。

説明板によると、覚馬がこの場所にいつから住み始めたかはわかりませんが、少なくとも明治8年(1875年)には居住が確認できるそうです。


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幕末、京都守護職松平容保に従って入京した覚馬でしたから、当然、池田屋事件の際には会津藩兵のひとりとして出動していたことでしょう。

あるいは、この地で吉田稔麿と闘ったのは、覚馬だったかもしれません。

覚馬は池田屋事件の報復のために長州藩兵が引き起こした元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)での負傷がもとで、のちに失明してしまいます。

その覚馬をこの地にあった邸で献身的に支えたのが、妹の八重だったんですね。

その八重の名が共に刻まれているということは、この石碑はおそらく大河ドラマの放送以降に建てられたのでしょうね。

大河ドラマの影響力は絶大です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-25 22:55 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

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