西郷どん 第17話「西郷入水」 ~斉彬死後の藩論の転換~

 幕府大老・井伊直弼による安政の大獄がはじまった安政5年(1858年)9月、西郷吉之助(隆盛)は清水寺塔頭・成就院の住職・月照を匿うべく鹿児島の地に戻ります。しかし、そこで待ち受けていたのは、藩論の転換に伴う冷たい仕打ちでした。


e0158128_11283315.jpg 前藩主・島津斉彬の死後、次期藩主には弟の島津久光の長男・忠義が就くことになりました。ドラマでは、斉彬が忠義を指名していましたが、記録によると、斉彬は当初、久光を次期藩主に指名したものの、久光が辞退したため、息子の忠義になったとされています。当時、斉彬にも男児がひとりいましたが、当時わずか3歳の幼少で、この難局に藩主となるには無理があるという判断だったのでしょう。また、あるいは、ドラマで斉彬が言っていたように、藩内の派閥抗争を生まないためという思惑もあったかもしれません。いずれにせよ、斉彬は死の淵で後事を久光に託します。


斉彬と久光の兄弟関係は、藩内抗争とは裏腹に良好だったと言われます。久光は開明的な兄・斉彬を尊敬し、斉彬は弟・久光の学識を高く評価していました。もっとも、開明的で洋学を進んで取り入れた兄に対して、弟は国学に秀でた頑固な保守家で、その久光の保守的な考え方が、のちに西郷や大久保の大きな障害となるのですが、この時点では、兄・斉彬のご遺志を継承するというのが、久光の行動の原則となります。それは、すなわち、京都の天皇および朝廷危急事態が発生すれば、薩摩藩はただちに出兵するというものでした。


 ところが、忠義が藩主の座に就くと、江戸で隠居していたはずの島津斉興(斉彬・久光の父)が鹿児島の地に戻り、藩主が若年だという理由で再び藩政の実権を握ります。そして斉彬時代の施策を大きく見直し、斉彬派の家老を罷免し、藩論を幕府に迎合する方向に大きく転換させます。西郷たちが帰藩したのは、そんな時期でした。


e0158128_13034480.jpg ドラマでは西郷とともに鹿児島入りした月照でしたが、実際には、月照をいったん福岡に潜ませ、西郷が月照を迎え入れるために先に帰国し、その後、月照は福岡藩士の平野國臣とともに安政5年11月8日(1858年12月12日)に鹿児島に入ります。しかし、月照や西郷に好意的ではない守旧派新納久仰が家老として藩権力を掌握しており、藩は月照の保護を拒否し、「日向国送り(東目送り)」を命じました。「日向国送り」とは、表向きは藩外追放処分ですが、実際には、薩摩国と日向国の国境で殺害することを意味していたといいます(異説あり)。藩当局にとっては、幕吏に追われる月照は厄介者でしかなかったんですね。


 ドラマでは、月照と西郷の両名を「日向国送り」としていましたが、実際には、藩当局が殺そうとしたのは月照だけで、西郷は、何らかのかたちで生かそうとしていたと思われます。というのも、西郷は鹿児島へ帰るとすぐに、捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助改名させられています。西郷を処刑して幕府に差し出すつもりなら、このような措置をする必要がありません。藩当局にしてみれば、斉彬派に人望の厚い西郷を殺すと後々藩内の調整が厄介になるので、ひとまず西郷は改名させてどこかへ逃し、月照だけ処分するといった考えだったんじゃないでしょうか。ところが、月照を敬愛する西郷は前途を悲観し、月照を護送する舟中から抱き合って錦江湾に身を投げます。安政5年11月16日(1858年12月20日)の未明でした。ネタバレになりますが、その後、西郷は奇跡的に助け出され、月照だけが命を落とすことになります。享年46。皮肉にも、藩当局が希望したかたちになったわけです。


 ドラマで月照が辞世を書いていましたが、これは史実で、引き上げられた遺体の懐から、鼻紙に書かれた辞世が見つかったとされます。


大君の ためにはなにか お(惜)しからむ 薩摩の迫門(瀬戸)に 身は沈むとも


 月照の死が、西郷の心の大きな傷跡となったであろうことは間違いないでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-07 20:02 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

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