幕末京都逍遥 その55 「蛤御門(京都御苑)」

京都御苑外郭九門のひとつである「蛤御門」にやってきました。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」の際、最も激戦地となった門として知られ、同変のことを「蛤御門の変」とも呼ばれることで周知の場所です。


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「蛤御門」の名称の由来は、御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて、「蛤御門」と呼ばれるようになったそうで、本来の正式名称は「新在家御門」なんだそうです。

その由来となった火災については、宝永の大火(1708年)後とする説と、天明の大火(1788年)後とする説が挙げられているそうです。


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現在の蛤御門は、明治10年(1877年)から明治16年(1883年)にかけて行われた大内保存および京都御苑整備事業によって移設されたもので、それ以前は現在よりも30mほど東の位置に、南を向いて建てられていたそうです。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)、伏見、山崎、天龍寺の陣を出た長州藩兵は、まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から京へ出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。

そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。

ここ、蛤御門に殺到しました。


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又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。

又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。

そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転

その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。

西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。

しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬

死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。

享年47。

西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。


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門には、複数の弾痕がいまも残っています。


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おびただしい数の弾痕が、その激戦のほどを雄弁に語ってくれます。

このなかには、あるいは川路利良の撃ったものもあるかもしれません。


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戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。

その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。

『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。

一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。

後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。

戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。

21世紀のいまも変わらない事実です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-16 23:10 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(4)  

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Commented by heitaroh at 2018-05-19 16:23
なるほど。戊辰戦争は戊辰戦争だけど甲子戦争は禁門の変なわけですね。
ちなみに、ベルサイユ講和条約の時の日本代表団の中には第一次世界大戦のことを何と名付けるかが議論になったそうで(当時はまさか二回もあるとは思ってなかったんでしょうね。)、甲子や戊辰のような名前も候補に出たそうです。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-05-19 19:33
> heitarohさん

戊辰戦争は錦の御旗を掲げた正義の戦争ですからね。
明治政府にとっては。

なるほど、たしかに第一次世界大戦は第二次があってこその第一次ですもんね。
じゃあ、当初はただの世界大戦とい呼ばれていたのでしょうか?
ちなみに第二次世界大戦も、太平洋戦争とか大東亜戦争とかいろいろ呼び方がありますが、どれが正しいのでしょう?
あと、満州事変や支那事変という呼び方も、禁門の変と同じ理由でつけられた名称でしょうね。
実際には、日中戦争なわけで・・・。
Commented by heitaroh at 2018-05-23 10:59
第二次世界大戦は西洋まで含めたすべて、太平洋戦争は対米戦に限定した話で、日本側だけから見た戦争であれば大東亜戦争かと。
太平洋戦争と呼ぶようになったのはGHQの指示だと聞きましたが。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-05-23 14:06
> heitarohさん

なるほど納得です。
「日米戦争」ではなく「太平洋戦争」だったのは、米側の都合だったのですね。
結局、戦争の呼称といのは、何らかの政治的意図が含まれているということですね。

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