幕末京都逍遥 その56 「清水谷家の椋(京都御苑)」

前稿で紹介した蛤御門を潜って100mほど東へ進んだ御所の南西の角のあたりに、「清水谷家の椋」と呼ばれるムクノキの巨樹があります。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)の際、長州藩の豪傑・来島又兵衛が、この木の下で自刃したと伝えられます。


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「清水谷家の椋」という名称は、この木のあたりに公家の清水谷家の屋敷があったことに由来します。

幹周は約4mあり、樹齢約300年と言われています。


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長州藩きっての武闘派として知られる来島又兵衛は、若年者が多かった幕末の長州藩士のなかでは、長老格でした。

何より猛々しさを重んじる又兵衛は、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物で、藩士からの人望も厚かったようです。

禁門の変に際して、ギリギリまで慎重論を主張する久坂玄瑞に対して、怒気を飛ばして論破したのがこの又兵衛で、その気質のとおり、彼が強硬派の急先鋒でした。

変当日の又兵衛は、風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて会津藩の守る蛤御門に猛然と攻めかけます。


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勇猛果敢な又兵衛の突撃によって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転

その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。

西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。

しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬

死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。

それが、このムクノキの下だったと伝えられます。

享年47。


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ムクノキの向こうに見える塀は、御所の外塀です。

当時も同じように塀があったのかどうかはわかりませんが、御所の目の前で朝敵の汚名を着せられたままの討死は、さぞ無念だったに違いありません。

西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-17 23:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

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