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幕末京都逍遥 その57 「鷹司邸跡(京都御苑)」

京都御苑内南端にある「鷹司邸跡」にやってきました。

鷹司家は鎌倉期に藤原氏から分かれた公家で、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)のひとつです。

「幕末」と呼ばれた時代、鷹司政通・輔煕父子が関白を務めていました。


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鷹司政通は、文政6年(1823年)に関白となり、以後、黒船来航から日米和親条約締結後の安政3年(1856年)まで30年以上関白を勤めました。

孝明天皇(第121代天皇)からの信頼も厚く、関白を退いたあとも、異例の太閤の称号を贈られます。

当初は開国論に立って日米和親条約締結を主張する立場をとりますが、開国政策に不安をつのらせた若手の攘夷派公家たちが「廷臣八十八卿列参事件」を起こすと、一転して攘夷派となります。

これが幕府の怒りに触れるところとなり、「安政の大獄」に連座して落飾し、出家します。


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政通の子・輔煕も「安政の大獄」で処分されて出家しますが、その後、赦免されて還俗し、文久3年(1863年)には近衛忠煕の後を受けて関白に就任します。

しかし、同年に起きた「八月十八日の政変」三条実美らの帰京の運動をしたため、12月に免じられます。


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また、翌年に起きた「禁門の変」(蛤御門の変)に際しては、ここ鷹司邸に久坂玄瑞寺島忠三郎ら長州藩兵が立て篭もりました。

ギリギリまで慎重論を主張していた久坂は、戦いが始まってもなお、朝廷への嘆願をあきらめておらず、鷹司邸に入って孝明天皇への取り次ぎをすがりますが、輔煕はこれを拒絶。

このときすでに玄瑞の部隊は包囲されており、万策尽きた玄瑞は、共に行動していた同じ松下村塾同門の寺島忠三郎と邸内で刺し違えて自刃します。

玄瑞は自刃する直前、同じく腹を斬ろうとしていた同門の入江九一を制止し、急ぎ帰国して藩主父子の上洛を阻止するよう依頼しますが、不運にもその九一も、直後に鷹司邸の裏門で待ち伏せていた福井藩兵に槍で顔を突かれ、その衝撃で両眼が飛び出し、見るも無惨な死体となって転がりました。

玄瑞25歳、忠三郎22歳、九一は28歳でした。


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その後、鷹司邸は火を放たれて焼失します。

一説には、「どんどん焼け」と呼ばれる禁門の変時に発生した京都の過半を焼き尽くした火災は、ここ鷹司邸からはじまったとも言われます。

変の翌日に西郷隆盛大久保利通に宛てた書簡には、鷹司邸内へ逃げ込んだ長州兵を砲撃で火攻めにしたところ、堪りかねて敵兵は早々に逃げ去ったと記されています。

それが本当なら、京都まちを焼き尽くしたのは西郷ということになりますね。

まあ、それだけではなかったんでしょうけど。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-18 22:47 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

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