西郷どん 第19話「愛加那」 ~奄美大島に対する苛政~

 奄美大島に流された当初の西郷吉之助(隆盛)は、島の生活に馴染めず苛立ち戸惑いに満ちた日々を送っていたようで、島民に対してもあまり良い感情を抱いていなかったようですが、一方で、島民に対する薩摩藩の不当な処遇を目の当たりにし、義憤を覚えるようになります。西郷が本土の大久保利通税所篤に宛てた安政6年2月13日(1859年3月17日)付の書簡には、次のように記されています。


「何方においても苛政の行われ候儀、苦心の至りに御座候。当島の体誠に忍びざる次第に御座候。松前の蝦夷人さばきよりはまだ甚敷御座候次第、苦中の苦、実に是程丈けはこれある間敷と相考え居り候処驚き入る次第に御座候」


曰く、「北海道松前藩によるアイヌ民族に対する政策よりもひどいもので、忍びざるを得ない。これほど酷い扱いだったとは思ってもみず、実に驚いた。」と。


 薩摩藩が奄美大島での砂糖の生産に介入するようになったのは、元禄年間(1688年~1704年)頃からだとされています。それまでは、年貢で納められた砂糖を他藩に売り捌いて藩の利益としていましたが、極度の藩財政の悪化に直面し、島民に対して過酷な砂糖生産のノルマを課すようになっていきます。さらに19世紀に入ると、第8代藩主の島津重豪放漫財政によってさらに財政は悪化。それを立て直すべく調所笑左衛門広郷が登用されると、その財政改革の一環として、奄美大島、喜界島、徳之島の三島での砂糖の総買い入れ制を布きます。つまり専売制ということですね。これにより薩摩藩は莫大な利益をあげることになりますが、島民に対する処遇はいっそう悲惨さを増すことになります。


 島民の砂糖は法外に安く買い上げられ、一方で、本土からの物品は市場の5倍から10倍といった法外な高値で藩から配当されました。そのため、島民は老いも若きも日の出から日没までも働き詰めで、にも関わらず、食べるものもままならず、有害な蘇鉄を食糧にしていたといいます。「働き方改革」「最低賃金」もありません。ほとんど植民地の奴隷状態ですね。ドラマで、前藩主・島津斉彬民のための善政を主張する西郷に対して、「わたしらは、民のうちにはいってなかったんだ」という愛加那の台詞がありましたが、まさしく、薩摩藩にとって島民は「民」ではなかったのでしょう。


 また、藩の役人や島在中の役人の暴力を伴う圧政と、私腹を肥やすためのごまかしも酷かったようで、血気盛んな西郷が怒りを顕にしたといいます。終生、不正を心底毛嫌いした西郷ですからね。当然の怒りだったでしょう。現に、西郷が悪代官を懲らしめたというエピソードが残されています。


e0158128_15135174.jpg 島での暮らしも半年以上が過ぎた安政6年11月8日(1859年12月1日)、島で西郷の身の回りの世話をしていた龍家の娘と結婚します。ドラマでは「とぅま」という名で呼ばれていましたが、幼名は於戸間金(おとまがね)といい、「於」は尊称、「金」は加那の古称なので、名は「とま」といいました。ドラマのとおり、結婚時に西郷が「愛」の名を与え、愛加那と名を変えます。


 ドラマで、「わたしをアンゴにしてほしい」と愛加那が言っていましたが、「アンゴ」とは「島妻」という意味です。つまり、島にいる間だけの現地妻ということですね。これに対して西郷は、島妻ではなく本妻になってくれと言っていましたが、そこはドラマですからね。実際には、やはり島妻であり、決して対等な立場での結婚ではありませんでした。現に、結婚後3年近くが経過した頃の西郷の書簡に、愛加那のことを「召し使い置き候女」と記しています。島妻は相手の男が本土に帰ると、同行できません。それでも、西郷は、結婚したあとも復権して鹿児島へ帰ることを期待し続けました。西郷にとって愛加那は、最初から現地妻だったんですね。


 ただ、これを非情だとするのは、現代人の感覚ですね。当時、島に流された武士が島妻を娶るのは普通のことで、島妻を差し出す側も、それなりの見返り、利益供与があったとされます。まあ、そう言ってしまうと、ドラマにはなりませんが。


 いずれにせよ、島妻とはいえ、愛加那との結婚で西郷の心身はずいぶん癒やされたようで、西郷は愛加那を心から愛しんだといいます。波乱万丈の西郷の人生のなかで、束の間の安らぎの時間でした。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-05-21 15:18 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

トラックバックURL : https://signboard.exblog.jp/tb/27286995
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
Commented by heitaroh at 2018-05-23 10:57
むしろ、松前の蝦夷人さばきの実態を西郷が認識していたことに驚きです。
現地妻はおそらく、島側にも、狭い島内だけで婚姻を繰り返していけば血が偏ってしまうという認識があったのでは・・・と見ながら思ってました。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-05-23 21:14
> heitarohさん

おっしゃるような意図もあったと思いますが、本土の武士の血を引く子(男子)は、本土に引き取られて武士として育てられたり、また、島に残ったとしても、何かと特権があって島役人になったりしていたようです。
そういう見返りを期待しての島妻提供だったのではないかと。
ちなみに、わたしの父方の先祖は、名字を名乗ることを許された郷士・島役人だったのですが、家系図を見ると、その始祖は江戸時代前期で、おそらく島流しにあった武士か、あるいはその血を引く人物だと思われます(叔父の見解ですが)。
なので、島民から恨まれていた側ですね(笑)。
ちなみにちなみに、名字を許された島の郷士は、本土との差別化を図るため、漢字一文字の名字しか許されませんでした。
なので、愛加那の龍家もそうですが、わたしも名字は漢字一文字です。
明治に入ってすべての島民に名字が許されるようになりますが、知識のない島民たちは、郷士の名字に習って漢字一文字の名字を付けた例が多かったようで、今でも奄美大島には漢字一文字の名字が多いです。
以上、豆知識でした(笑)。

<< 幕末京都逍遥 その59 「近衛... 幕末京都逍遥 その58 「九条... >>