幕末京都逍遥 その61 「凝華洞跡(京都御苑)」
京都御所建礼門の南側にあったとされる凝華洞跡を訪れました。
ここは、かつて会津藩主の松平容保が、仮宿舎とした場所と伝えられます。
元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)の際、京都御所を守っていたのは会津藩と薩摩藩でした。
その会津藩主の松平容保は、当時、京都守護職を務めていたので、事実上、薩会軍の大将だったわけです。
ところが、容保は禁門の変の半年ほど前から病を患っており、変当日も、両肩を家臣に抱えられながらの戦だったといいます。
そのため、朝廷の配慮によって凝華洞を仮宿舎としたそうです。
凝華洞は、江戸時代中期の後西天皇(第111代天皇)が、退位後の仙洞御所とした場所だそうで、そのような場所を仮宿舎として容保に与えたことからみても、孝明天皇(第121代天皇)が、いかに容保を頼りにしていたかがうかがえます。
現在、凝華洞跡は小高い丘になっており、松の大樹が聳えます。
樹齢はわかりませんが、あるいは、往時を知っているかもしれません。
凝華洞跡のすぐ北側に、御所南側の正門「建礼門」が見えます。
文久3年(1863年)の八月十八日の政変の際、かけつけた壬生浪士組がこの門を警護し、その功から、3日後の8月21日に「新選組」の名を賜ったとされるゆかりの門です。
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by sakanoueno-kumo | 2018-05-25 01:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)