幕末京都逍遥 その69 「禁門変戦死長州人八名首塚碑(上善寺)」

相国寺北門から北へ300mほど歩いたところにある上善寺には、元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)で命を落とした長州藩士の首塚がります。

山門の横には、「贈 正四位入江九一外七名首塚」と刻まれた石碑があります。

ここに葬られているのは、石碑に刻まれていた入江九一をはじめ、原道太、半田門吉、奈須俊平、田村育蔵、緒方弥左衛門、小橋友之輔、そして無名藩士1の計8名の長州藩士たちです。


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ここは、長州藩の菩提寺というわけではなく、越前福井藩の菩提寺でした。

「禁門の変」というと、「その55」で紹介した蛤御門前の激戦をいちばんに思い出しますが、「その56」で紹介した堺町御門付近でも、鷹司邸に立て籠もった久坂玄瑞ら長州軍と越前福井藩の軍勢によって激しい交戦を繰り広げられました。

しかし、やがて鷹司邸は火を放たれ、立て籠もった長州藩士は全滅します。

このとき堺町御門警衛隊長だった越前福井藩士の桑山十蔵が、放置されたままになっていた長州藩士の遺骸を見かねて、主君の松平春嶽の許しを得て、その首級を持ち帰り、ここに葬ったそうです。

「その67」で紹介した相国寺内の長州藩士の墓は、薩摩藩邸のすぐ北にあたる場所で、薩摩藩士によって葬られたものだと伝えられます。

つまり、蛤御門で命を落とした長州藩士は薩摩藩士によって相国寺に、堺町御門付近で討死した長州藩士は、越前福井藩士によって、ここ上善寺に葬られたということでしょう。

故あって敵味方となったものの、共に皇国のために死力を尽くした者同士、敬意を表したというわけですね。

武士道の精神ここにありです。


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また、一説には、当初、この首塚に、久坂玄瑞の首も収められていたもいわれます。

ところが、ある日、ひとりの婦人が訪れて塚を掘り返し、久坂の首を持っていってしまったとのこと。

その婦人は、久坂の馴染み芸者で、久坂が死んだときに久坂の子を身籠っていた辰路という女性だったそうです。

この話は、元土佐藩士で陸援隊士だった元老・田中光顕の回顧録にある話だそうで、当時、田中は脱藩して長州藩に身を寄せていましたから、この話も、荒唐無稽とは言えないかもしれません。

実際に、辰路という女性は実在していますし、その生まれた子も、明治維新後に久坂の遺児認知され、久坂家を継いでいます。


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首塚は住職のお住いの抜けなければならない場所にあるようで、わたしがここを訪れたのは8月13日のお盆の真っ只中で、お墓参りの方々が大勢おられたなかで、カメラを首に下げたわたしが墓地に入らせてもらうことが憚られ、首塚に参るのは遠慮しました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-06 23:27 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

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