幕末京都逍遥 その71 「小松帯刀寓居跡」

前稿で紹介した薩摩藩二本松藩邸跡の石碑から800mほど北上したところに、五摂家のひとつである近衛家の別邸(御花畑御屋敷)があったとされ、幕末には薩摩藩家老の小松帯刀が寓居としていました。

現在、その跡地には、「小松帯刀寓居跡」と刻まれた石碑があります。


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石碑の反対面には、「薩長同盟所縁之地」と刻まれています。


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慶応2年1月21日(1866年3月7日)、土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介で、それまで対立していた薩摩藩と長州藩の間で結ばれたという薩長同盟ですが、その締結の場となったのが、小松帯刀の邸だったと伝わります。

公式な記録は残っていませんが、長州藩士・木戸孝允の伝記『松菊 木戸公伝』の中に、この同盟について「帯刀の寓居に會合し」と記されており、ここが薩長同盟締結の場であったことを後世に伝えています(諸説あり)。


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最近まで、御花畑御屋敷のあった正確な場所はわかっていなかったそうですが、平成28年(2016年)に新たな史料が見つかり、鞍馬口通りにあったことが確認されたそうです。

その史料によると、御花畑御屋敷は鞍馬口通約90m、室町通約60m、中町通約140m、面先は約1800坪という広大な邸宅であったことがわかりました。


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一般に、薩長同盟の締結によって薩摩・長州両藩がともに幕府に対抗することを確認し、明治維新に向けての大きな転換点となった重大な同盟という認識ですが、実は、歴史家の間では、この同盟は薩長間に大きな温度差があったのではないか、と見られています。

というのも、それほど重要な会談でありながら、その内容はその場で記録されず、正式な盟約書も残されていません。

現在伝わっている6ヶ条の内容は、会談の翌日に木戸孝允が、同席していた坂本龍馬に宛てて確認のために送った書簡によるもので、その書簡の裏面に木戸の要請で龍馬が朱書をしたものだけです。

そのことから、長州側にとっては、この会談の持つ意味は大きかったものの、薩摩側からすれば、「同盟」というほど大袈裟なものではなく、単に意思確認をしただけだったのではないか、とも見られ、しかし、会談による何らかの成果を持ち帰りたかった木戸が、書簡に龍馬の裏書きを求めたのではないか、と推察されます。

確かに、正式な盟約書が存在したのなら、龍馬の朱書きなんて必要ないですもんね。

そんな観点から、「同盟」といわれるだけの内実を有していないという理由から、学会では「薩長盟約」という表現が用いられています。


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また、よく知られているエピソードで、薩長両藩とも互いのメンツにこだわって盟約話を切り出さずに暗礁に乗り上げかけたときに、遅れて来た坂本龍馬が西郷隆盛一喝し、盟約が成立したという旧くからの説がありますが、これも、「西郷を一喝した」という記録はどこにも存在せず、後世の脚色のようですね。

龍馬が遅れて来たのは事実で、龍馬が来てから盟約が成立したのも事実ですから、龍馬が盟約の成立に何らかの役割を果たしたのは事実かもしれませんが。


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説明板によると、以前は別の場所が御花畑御屋敷跡だと判断されて石碑が建てられていたそうですが、その後、その場所が誤りだということがわかり、平成29年(2017年)3月、改めてこの地に建碑されたそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-06-09 09:32 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

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