西郷どん 第22話「偉大な兄 地ごろな弟」 ~地ゴロ発言~

e0158128_15131310.jpg 西郷吉之助(隆盛)が奄美大島より召喚された最大の理由は、かつて西郷がリーダー格だった誠忠組藩権力を掌握し、これから中央政局に乗り出していこうとするなかで、諸藩の志士や朝廷に名の売れた西郷に国事周旋を補佐させるためでした。ところが、帰藩した西郷は、誠忠組が推進してきた島津久光を担いで東上するという計画に真っ向から反対します。その理由は、久光は国父といえども藩主になった経験がなく、そのため、参勤交代などで江戸にも京にも行ったこともなく、有力諸侯や老中らとの交流もないため、東上して政治活動をするのは無理であり、そもそも、無位無官の身である久光には、中央政局で発言する資格がない、というものでした。上洛など時期尚早で、まずは、大藩の有力諸侯との連携構築が先である、と。たしかに西郷の指摘は的を射ており、問い詰められた中山中左衛門、小松帯刀、大久保利通ら久光の側近は、ぐうの音も出なかったといいます。


 そして後日、西郷が久光と会見した際、西郷の口から後世に有名な久光批判の発言が飛び出します。「地ロゴ」ですね。「地ロゴ」の語源は「地五郎」で、つまり「田舎者」という意味。すなわち、田舎者の久光が京や江戸に乗り込んで何ができるのか、といった批判で、これを聞いた久光が大いに気分を害したことはいうまでもありません。


e0158128_11283315.jpg 西郷のこの発言の裏には、おそらく西郷が常日頃から兄の故・島津斉彬と久光を比較し、今回のサブタイトルのように、都会的で偉大な兄に対して田舎者の弟といった久光を軽視する気持ちがあったのだろうと想像できますし、また、その背景には、かつてのお由羅騒動による久光派への敵対意識や、斉彬暗殺疑惑などの偏見も影響していたに違いありません。それらの過去の派閥抗争に久光は直接関係しておらず、また、斉彬と久光の関係は良好だったといわれていますが、斉彬を崇拝する西郷としては、簡単に割り切れない思いがあったのでしょう。久光公ごときが先君の遺志を継ごうなんて片腹痛い、と。


 また、久光とその側近に対する西郷の不満はそれだけではなく、奄美から帰藩したときの藩政にもありました。前話の稿でも述べたとおり、国父となった久光は島津斉興時代の家老・島津豊後(月照と西郷を追放した家老)を罷免し、前藩主の斉彬に重用された島津久徴主座家老としましたが、この久徴の就任を西郷はたいへん喜んでいました。というもの、久徴は日置島津家の出身で、かつてお由羅騒動に連座して切腹した赤山靱負実弟だったからです(参照:第4話)。西郷と赤山は浅からぬ関係で、その実弟である久徴の復職は、西郷にとってはこの上なく喜ばしい人事だったんですね。


 ところが、その久徴が、久光の上洛計画に異を唱えます。その理由は、いま久光が上洛しても成功は見込めないというもので、概ね西郷が大久保らを問い詰めた内容と同じでした。この反対を受けた久光は、久徴を罷免し、久徴を取り巻く日置派に属した藩士たちも閑職に追いやります。おそらくは、大久保たち誠忠組も、この人事に口を出していたに違いありません。西郷はこれも気に入らなかったのでしょうね。


e0158128_17375658.jpg 西郷の主張は決して間違ってはいませんでしたが、彼のやり方は、決して褒められたものではなかったでしょう。このとき西郷が奄美大島在住の木場伝内に宛てた書簡には、上述した中山、小松、大久保に対して、「愚行の形行残さず申し上げ候」とか、「甚だ以て疎地の御策」などといった厳しい言葉で痛烈に批判したと記されています。若き日の西郷は後年とは違い、相手を完膚なきまでに論破してしまう尖った男だったといいますが、これでは、相手の立場を配慮しない、顔をつぶすに等しいやり方です。いくら西郷の批判が的を射たものだったとしても、顔をつぶされた側は面白いはずがありません。西郷にしてみれば、かつて江戸や京で一流の志士高貴な方々と深い交流を持った自分と、国元にいる薩摩人では格が違うといった上から目線はあったかもしれません。また、3年という島暮らしの期間が、西郷を多少ひねくれさせていたかもしれませんね。大久保、小松がこのときどう思ったかは伝わっていませんが、中山は、大久保とともに久光の東上計画を作成した人物であっただけに、恥をかかされたという思いが人一倍強く残り、この後、薩摩藩内の反西郷勢力のリーダー格となり、西郷を大いに苦しめることになります。


 また、久光に対する有名な「地ゴロ」発言ですが、わたしはかねてから、いくら久光に批判的だったとはいえ、藩内最高権力者に対して、このような不躾な発言を直にするだろうかと疑問に思っていたのですが、今回のドラマでは、西郷に直接「地ゴロ」と言わせず、遠まわしに批判する西郷の意図を察した久光が、「おいを薩摩しか知らん地ゴロち抜かすか!」と問い詰めるという設定でしたね。たしかに、このほうが自然かもしれません。


ちなみに、この西郷の「地ゴロ」発言の出典は、はるか後年の明治19年(1886年)に久光が側近の市来四郎に対して述懐したものを市来が書き残したもので、信用に足る逸話とはいえません。あるいは、年老いた久光が多少話を盛っていたかもしれませんね。ただ、いずれにせよ、これに近い失礼な発言をしたのは事実と思われ、これが、西郷と久光の長い対立関係の開始を告げるゴングとなったことは間違いないでしょう。


 そんな西郷の反対意見も採用されることはなく、久光の東上は決行されることになります。そうなると西郷も、封建社会に生きる武士である以上、従わざるをえません。西郷は村田新八とともに久光らの出立に先立って出発し、形勢を視察したうえで下関で久光一行を待つことになります。ところが、その下関で、上方で尊王攘夷派の挙兵計画があることを聞き、その中に薩摩藩士が含まれていることを知ると、彼らを鎮めるために矢も盾もたまらず下関を発ってしまいます。これが、再び久光の逆鱗に触れることになるんですね。


 今話は「偉大な兄 地ごろな弟」というサブタイトルで、久光と斉彬の関係にかぶせて、西吉之助(隆盛)と西郷信吾(従道)兄弟を描いていましたが、たしかに信吾は次週の寺田屋事件に関わってはいますが、彼が歴史の表舞台に登場するのはまだまだ先のことです。ここで無理に弟を出して創作話を展開するより、上述した「地ゴロ」発言の経緯や側近たちの感情の機微などを、もう少し丁寧に描いてほしかったですね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-06-11 16:28 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

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