幕末京都逍遥 その86 「二条城二の丸御殿」
二条城にやってきました。
現在に伝わる二条城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛時の宿所として慶長7年(1602年)から翌年にかけて造営されたものですが、幕末、ここ二条城の二の丸御殿において、大政奉還の宣言が行われました。
ここを訪れたのは昨年の9月で、ちょうど「大政奉還150年周年記念プロジェクト」が行われており、東大手門前には金屏風風の看板が設置されていました。
そして、こちらが大政奉還の表明の舞台となった二の丸御殿。
国宝です。
二ノ丸御殿は、将軍上洛の際の居館として、徳川家康によって慶長8年(1603年)に造営され、その後、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇行幸に備えて、第3代将軍・徳川家光の代に改造が行われ、現在の姿となりました。
御殿は全6棟の建物から成り、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として、日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日においては、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952年)に国宝に指定されました。
正面右側のいちばん手前の建物が、「車寄」と言われる正面玄関です。
その後方の大きな屋根の棟が、「遠侍」と呼ばれる二ノ丸御殿最大の建物です。
そこから左奥へ、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院と連なります。
残念ながら、建物内は撮影禁止です。
なので、庭園側から外観を撮影。
こちらが「大広間」の建物。
「大広間」は将軍が諸大名と対面した部屋で、二の丸御殿の中でもっとも格式の高い部屋です。
慶応3年10月13日(1867年11月8日)、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は、ここ大広間に在京している10万石以上の大名家の重臣を召集し、政権を朝廷に返上する意志を表明しました。
集まったのは、尾張、紀州、彦根、讃岐高松、姫路、庄内、加賀、阿波、筑前福岡、仙台、鳥取、肥後熊本、米沢、越前福井、備前岡山、薩摩、土佐、芸州広島、宇和島、会津、新発田など、40藩50余名でした。
そして、その翌日の10月14日(1867年11月9日)、慶喜は政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。
これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として164年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げます。
写真はありませんが、大広間内には上段の間に座する将軍の前で、裃姿の重臣たちが平伏するイメージが人形によって再現されていました。
二条城二の丸御殿は、もうひとつの有名な歴史的出来事として、慶長16年(1611年)に徳川家康が豊臣秀頼と会見した場所でもあります。
時を超えていくつもの歴史を刻んだその舞台は、いまでは世界文化遺産として世界中の観光客で賑わっています。
二条城につては、昨年の拙稿で詳しくレポートしています。
よければ一読ください。
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大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その1 ~外堀・城門~
大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その2 ~二ノ丸御殿・二ノ丸庭園~
大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その4 ~本丸・天守台~
「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。
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by sakanoueno-kumo | 2018-07-03 23:51 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)