幕末京都逍遥 その90 「六角獄舎跡(勤王志士平野國臣外十数名終焉之地)」

二条城から500mほど南下したあたりに、江戸時代の京の牢獄「六角獄舎」がありました。

正式名称は「三条新地牢屋敷」といい、六角通りにあったことから、「六角獄舎」または「六角獄」、「六角牢」などと呼ばれていました。


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現在、六角獄舎跡の敷地はマンションが建っており、当時の痕跡を窺い知ることはできません。

マンションの入口には、「勤王志士 平野國臣外数十名終焉趾」と刻まれた石碑があります。

幕末、この地で平野國臣をはじめ、多くの志士たちが処刑されました。


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幕末の混乱時、大老・井伊直弼の断行した安政の大獄による政治犯や、過激な尊皇攘夷志士たちが多くここに収監され、処刑されました。

その反面、攘夷派の志士たちが囚人として多数集まったため、ここで知り合ったり情報交換したりする場所ともなり、彼らのあいだでは「会所」とも呼ばれていたそうです。


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マンションの敷地内には、「殉難勤王志士忠霊塔」と刻まれた慰霊碑と、その横には小さながあります。


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幕末動乱の初期から尊王攘夷論と唱えて活動していた平野國臣は、文久2年(1662年)3月、薩摩藩国父の島津久光の上洛に乗じて薩摩藩士らとともに挙兵をはかりますが、当の久光自身には討幕の意思などなく、急進派の薩摩藩士らは伏見寺田屋において久光に差し向けられた同じ薩摩藩士によって鎮圧されます。

世にいう寺田屋事件ですね。

この騒動に連座して國臣も捕らえられ、福岡藩に引き渡されて投獄されます。


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翌年に許されて上京、学習院出仕に任ぜられますが、八月十八日の政変で京都を去り、七卿落ちの一人・沢宣嘉を奉じて但馬地方で義兵をあげ、生野銀山代官所を襲いますが、豊岡藩兵に捕らえられ、ここ六角獄舎に投獄されました。

翌年の禁門の変の際における火災により、京都の町は火の海となりました。

「どんどん焼け」と呼ばれたその火の手は獄舎周辺まで迫り、火災に乗じて囚人が逃亡することを恐れた西町奉行所の役人・滝川具挙は、判決が出ていない状態のまま独断で囚人の処刑を断行します。

このとき、國臣と共に斬首されたのは37名

その中には、池田屋事件のきっかけとなった古高俊太郎もいました。

ひとりずつ時世の句を詠んでは首を落とし、また次のひとり・・・。

処刑は3時間に及んだといいます。


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話は変わって、入口の石碑の隣には、「日本近代医学発祥之地」と刻まれた石碑があり、敷地内の慰霊碑の横には、「日本近代医学のああけぼの山脇東洋観臓之地」と刻まれた立派な記念碑があります。

ここ六角獄舎は、宝暦4年(1754年)に医学者の山脇東洋が、京都所司代の許可を得て日本で初めて人体解剖を行った場所でもあります。

あの解体新書で知られる杉田玄白が江戸で人体解剖を行う17年も前のことでした。

いうまでもなく、解剖に用いられた遺骸は、ここ六角獄舎で処刑された囚人でした。


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敷地内には、かつて囚人の斬首に使った刀を洗ったとされる「首洗いの井戸」の跡も残っているというのですが、それがどこにあるのかがわかりませんでした。

慰霊碑の前の礎石でしょうか?


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多くの命が奪われたこの地は、密かな心霊スポットになっているそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-08 23:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

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