幕末京都逍遥 その92 「平野國臣以下三十七士之墓(竹林寺)」
京都西陣にある竹林寺に、「その90」で紹介した六角獄舎で処刑された平野國臣をはじめとする37士の墓があると知り、足を運びました。

幕末、六角獄舎には多くの政治犯が投獄されていましたが、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)によって起きた大火災によって京都の町は火の海となり、火災に乗じて囚人が逃亡することを恐れた西町奉行所の役人・滝川具挙が、判決が出ていない状態のまま独断で囚人37名の処刑を断行しました。

山門の横には、「元治甲子勤王志士贈正四位平野國臣外三十餘士之墓アリ」と刻まれた古い石碑があります。

その横の説明板です。

さらにその横には、37士の名簿があります。
平野國臣はじめ生野の変の同志5名、天誅組の水郡善之祐以下16名、池田屋事件の古高俊太郎以下8名、その他8名の計37名です。

獄舎で斬首された平野らの遺体は、西の京刑場(現在の西大路通丸太町付近)にまとめて埋められ、その後、幕末のドサクサのなか忘れ去られていました。
ところが、それから13年後の明治10年(1877年)、化芥所(ごみ処理施設)となっていた西の京刑場跡から姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見され、調査の結果、これらは六角獄舎で斬首された平野ら勤王志士37名の遺骨であることがわかり、あらためてここに移葬されたそうです。

こちらが、その墓碑です。
明治43年(1910年)に建立されたものです。

いちばん右上に平野國臣、いちばん下の段の中央付近に古高俊太郎の名前がありますね。
上部中央に名を連ねる乾十郎は、司馬遼太郎氏の短編『五条陣屋』のなかで、一種の狂人として描かれている人物です。

志士は溝壑に在るを忘れず(志士不忘在溝壑)
勇士は其の元を失ふを忘れず(勇士不忘喪其元)
「志士は山野の溝に自分の遺体を晒すことを恐れてはならない」
「勇士は斬首されることを恐れてはならない」
とは、幕末の志士たちの共通のスローガンで、禁門の変に際しては、多くの名もなき志士たちが、その屍を晒して打ち捨てられていたはずです。
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by sakanoueno-kumo | 2018-07-10 23:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)