西郷どん 第26話「西郷、京へ」 ~西郷の赦免と参預会議~

 元治元年2月28日(1864年4月4日)、遠島の罪を解かれた西郷吉之助(隆盛)が約1年半ぶりに沖永良部島より本土・鹿児島の地に戻ってきました。帰藩した当初の西郷は、長い座敷牢生活がたたってか、足腰が弱って一人で歩くのも難しい状態だったといいます。ドラマでの西郷はハツラツとしていましたが、実際には、この1年半の遠島生活で西郷はずいぶん弱っていたようです。


e0158128_15131310.jpg 西郷が召還されるに至った経緯は、薩英戦争後、発言権を増すことになった旧誠忠組系の藩士による強い要望が実を結んだものでした。ドラマでは、小松帯刀がその交渉役として尽力していましたが、実際には、西郷召還運動の先頭に立っていたのは、ドラマには出てきていない高崎五六という人物でした。高崎は何度も国父・島津久光に西郷の赦免を求めますが、久光はなかなか首を縦にふらなかったため、高崎が要望を聞き入れてもらえなければ腹を切るとまで訴えると、久光は渋々、息子で藩主の島津忠義に裁決を委ね、忠義によって西郷の赦免が決定します。結局は西郷の人望に勝てなかった久光ですが、どうしても自身の判断では赦したくなかったのでしょうね。


 また、西郷が赦された背景には、当時の中央政局における薩摩藩の立場も影響していました。ドラマでは描かれていませんでしたが、薩英戦争の約1ヶ月後の文久3年8月18日(1863年9月30日)、薩摩藩は会津藩と手を組んで、当時朝廷を支配していた長州藩過激派の公卿を京のまちから追放するクーデターを敢行します。世にいう「八月十八日の政変」ですね。これにより、薩摩藩と会津藩が京における支配的地位を築くことになるのですが、一方で、長州藩を中心とする尊王攘夷派からの憎しみを買い、薩摩藩は京大阪での評判を著しく落とすことになります。


e0158128_19210653.jpg さらに、久光は、かねてからの持論である公武合体を実現するべく、有力諸藩が集って政を行う合議制会議、いわゆる参預会議の開催を実現するのですが、しかし、兵庫開港問題などで一橋慶喜と久光が対立し、酒の席で慶喜が罵倒するに至り、会議はまたたく間に立ち行かなくなってしまいます。もともと、久光も慶喜も開国論者だったはずで、ふたりの意見に相違点は少なかったはずでしたが、慶喜は久光にイニシアチブを取られることに抵抗したと言われています。そもそも、公武合体と言っても、久光らのいう公武合体は、天皇のもとに賢侯を集めての中央集権を目指すというものでしたが、幕府のいう公武合体は、あくまで幕府と朝廷による合議制であって、そこに諸侯は含まれていなかったわけです。ドラマでヒー様が、「俺は 将軍家名代としてつきあってやってるんだ。」と言っていましたが、おそらく、遠からずの思いだったのでしょう。


e0158128_11283315.jpg そんな背景のなか、薩摩藩は、尊攘派からも幕閣からも評判を落とすことになります。この苦境を打開するためには、声望が高く周旋能力に長けた人材が必要だったんですね。その適任が西郷であることは、誰の目にも明らかでした。久光も妥協せざるを得なかったわけです。


 ドラマで、西郷と面会した久光が、怒りに震えて銀の煙管を噛みしめるシーンがありましたが、実際には、これより少し前の西郷の赦免が決定したときのエピソードが元で、久光は西郷の赦免に渋々同意したものの、加えていた銀の煙管を歯型がつくほど噛んだと伝えられます。よほど西郷の赦免が不本意だったのでしょう。人間、誰しも、どうしても肌が合わない相手というのがいると思いますが、西郷と久光は、まさしくその典型だったのでしょうね。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-07-17 19:24 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

トラックバックURL : https://signboard.exblog.jp/tb/27416214
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]

<< 幕末京都逍遥 その96 「池田... 幕末京都逍遥 その95 「渡辺... >>