幕末京都逍遥 その98 「浄福寺(薩摩藩屯所跡)」
西陣にある浄福寺を訪れました。
ここは薩摩藩ゆかりの寺で、薩摩藩の屯所として利用されたと伝わります。
写真は東門です。
見てのとおり朱塗りの門で、地元では赤門と呼ばれ、寺の名称も赤門寺と呼ばれたりするそうです。
浄福寺と薩摩藩との縁は、天正20年(1592年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に反対して自害に追い込まれた島津歳久の首が、ここに葬られたことに始まります。
鹿児島の竜ヶ水にて自害した歳久の首級は、肥前名護屋城にいた秀吉のもとに届けられ、首実検ののち、京都に送られて一条戻橋に晒されました。
ところが、ちょうどその時期に、歳久の従兄弟に当たる島津忠長が入京しており、大徳寺の玉仲和尚と図って晒されていた歳久の首級を盗み出し、ここ浄福寺に埋葬したといわれます。
それから280年、浄福寺は薩摩藩と深い結び付きを持つようになります。
時代は進んで幕末の慶応3年(1867年)4月、薩摩藩国父の島津久光が西郷隆盛を従え、兵700人を引き連れて入京しますが、その際、二本松の藩邸(参照:その69)ではすべてを収容しきれず、ここ浄福寺の本堂や庫裏を宿舎として利用したと伝わります。
その本堂です。
そして、こちらが庫裏。
庫裏の入口の軒屋根を支える柱には、複数の刀傷があります。
これは、ここに駐屯していた薩摩藩兵がつけたものだといわれています。
たしかに、どう見ても鋭利な刃物でつけたと見られる傷ですね。
それにしても、柱を斬りつけるなど、気性が荒い藩士がいたものです。
司馬遼太郎の作品のなかで、浄福寺の薩摩藩士のことを書いた『薩摩浄福寺党』という短編があるのですが、そのなかで、司馬氏は次のように書いています。
「薩摩藩では、錦小路(参照:その42)にふるくから藩邸があったのだが、これでは足りないため、現在の同志社大学のあたりに二本松藩邸を造営し、それでもまだ不足があったので、西陣の浄福寺の客殿、本坊などが借りあげられたのである。この浄福寺を寮としているのは二十人ばかりの下級藩士で、年も若く、妙に乱暴者ばかりがあつまった。自然たれがいうともなく、「浄福寺党」という異名で呼ばれた。」
なるほど、ここにいた兵は、皆、乱暴者だったようです。
上述した島津歳久の首ですが、280年間ここ浄福寺に埋葬されていましたが、明治5年(1872年)、歳久の末裔に当たる日置島津家14代島津久明が首を掘り起こして鹿児島に持ち帰り、また、鹿児島の帖佐の総禅寺に埋葬してあった胴体も同時に掘り起こし、共に竜ヶ水の平松神社(心岳寺)に改葬したそうです。
「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。
↓↓↓
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2018-07-20 22:41 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)