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幕末京都逍遥 その99 「妙蓮寺(禁門の変時の刀傷)」

前稿で紹介した浄福寺から1kmほど北上したところにある妙蓮寺にも、幕末の刀傷が残されています。


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妙蓮寺は鎌倉時代の僧・日像によって創建された寺院で、全盛期には1km四方の境内に27ヶ院を有する大寺院でしたが、天明8年(1788年)の天明の大火災によってそのほとんどが焼失し、山門鐘楼を残すのみとなりました。

その後、寛政元年(1789)より復興して今日に至ります。


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鐘楼本堂です。


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本堂です。


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本堂前にある御会式櫻です。

ここを訪れたのは平成30年(2018年)3月17日でしたが、早咲きの桜が花を開いていました。


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そして、本堂奥の庫裏内の柱に、刀傷が残されています。


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こちらがその刀傷


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その伝承によると、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)の際、長州兵がここに逃げ込み、落ち武者の捜索に訪れた薩摩藩兵(一説には新選組)によって柱に刀痕が残されたといいます。


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また、別の説では、妙蓮寺は禁門の変後に薩摩藩の野戦病院となったそうで、その後、慶応2年(1866年)に坂本龍馬の仲介で薩長同盟が締結したことを知った新選組が、怒ってここ妙蓮寺に押しかけ、山門で押し問答となりますが、天皇ゆかりの菊の御門を奉じていたため、その怒りを柱に残したといわれてます。

方丈小玄関に残る刀傷は、近藤勇・土方歳三・沖田総司らがのことしたと言われているそうで・・・。


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前述の説はともかく、後述の説は、眉唾ものでしょうね。

当時、薩長同盟は極秘に行われたもので、新選組ごときが知り得たとは思えませんし、その薩長同盟自体、長州藩ほど薩摩藩は重要視していませんでした。

ましてや、仮に新選組が知り得たとしても、単なる野戦病院だったここに押しかける理由が見当たりません。

そんな疑問を妙蓮寺の事務の方に投げかけたところ、苦笑されていました(笑)。

おそらく、禁門の変時の刀傷という説のほうが正しいのではないでしょうか。

なんでも新選組や坂本龍馬に結びつけて観光客を呼び込むというのは、あまり感心できません。


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写真は庫裏内の庭園です。

「十六羅漢の石庭」と呼ばれます。

また、写真撮影は禁止ですが、奥書院の四間に現代絵画家・幸野楳渓筆の「四季の襖絵」があります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-22 19:40 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

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