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幕末京都逍遥 その101 「旧前川邸跡(新撰組壬生屯所跡)」

前稿で紹介した八木邸跡から坊城通りを挟んですぐ東側に、旧前川邸跡があります。

ここも八木邸と同じく、初期の新選組の屯所となった屋敷です。


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文久3年(1863年)春、第14代将軍・徳川家茂の警護のために清河八郎率いる浪士組が上洛しますが、隣の八木邸と同じく、ここ前川荘司の屋敷もその宿舎のひとつとして使われました。

その後、八木邸に分宿していた十数名だけが京に残って新選組の前身である壬生浪士組となりますが、やがて人数が増えると八木邸だけでは手狭となり、ここ前川邸や南部邸(現存していない)なども屯所とするようになります。

そのなかでも前川邸の屋敷は最も広く部屋数も多かったようで、多くの隊員が生活していました。

やがて、浪士組が会津藩御預となると、前川邸は本格的に屯所として使われ始め、前川荘司一家は油小路六角にあった前川本家の両替店への避難生活を余儀なくされたといいます。

ほとんど乗っ取りですね(笑)。

前川邸を手に入れた新選組は、討幕派からの守りを固めるため、屋敷に手を加え、城塞化していきました。

屋敷を取り囲む塀は、ほとんどが板塀から土塀に改築し、長屋門には、監視のための出格子を取り付け、母屋の納戸からは、坊城通りへ脱出するための抜け道も作られたそうで、いまも抜け穴は残っているそうです。


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文久3年9月16日か18日(1863年10月28日か30日)、八木邸で芹沢鴨近藤勇一派によって粛清されますが、土方歳三ら刺客メンバーは、芹沢が島原遊郭からの帰還し、部屋の明かりが消えるのをここで見届けてから八木邸に討ち入ったといいます。

そして、翌日の芹沢の葬儀も前川邸で行われたと伝わっているそうです。

それから間もない文久3年9月26日(1863年11月7日)、長州の間者だった御倉伊勢武荒木田左馬之介が、前川邸の縁側で月代を剃っていたところを斎藤一林信太郎斬殺され、楠小十郎は門前で原田左之助殺害されました。

また、その年の暮れ、芹沢派の生き残りだった野口健司が、前川邸の綾小路通に面した一室で切腹したといいます。


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翌年の元治元年6月5日(1864年7月8日)、小道具の「桝屋」の主に扮していた攘夷派志士の古高俊太郎が逮捕され、過酷な拷問を受けて白状したことから、池田屋事件に発展しますが、その拷問が行われたのも、ここ前川邸の土蔵だったといいます。

古高に対する拷問は、2階から逆さ吊りにされて足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられて火をつけられるなどの過酷さだったとか。


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そして、さらに翌年の元治2年2月23日(1865年3月20日)、新選組総長の山南敬助切腹したのも、ここ前川邸だったといいます。

山南が切腹したのは坊城通に面した出窓の奥の一室だったと伝わり、山南の切腹を知って駆けつけた島原の遊女・明里が、その格子戸越しに最期の別れを交わしたという逸話が伝えられます(もっとも、現在ではこの逸話は子母沢寛による創作の可能性が高いといわれています)。


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旧前川邸は、現在も居住されており、一般公開はされていません。

ただ、週末だけ、新選組ファンのために一部公開してグッズ販売などをされています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-25 23:13 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

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