幕末京都逍遥 その115 「泉涌寺・久邇宮朝彦親王の墓」
前稿でも紹介したとおり、東山の泉涌寺は歴代天皇家の菩提所として天皇陵、皇妃、親王陵墓が数多くありますが、幕末の人物としては、前稿で紹介した孝明天皇(第121代天皇)陵の他に、久邇宮朝彦親王の墓があります。
同じ敷地内に、桂宮淑子内親王と梨本宮守脩親王の墓もあります。
こちらが久邇宮朝彦親王の墓。
久邇宮朝彦親王というより、通称の中川宮と言ったほうがよく知られているかもしれませんね。
伏見宮邦家親王の四男として文政7(1824)年に生まれた朝彦親王は、日米修好通商条約に反対し、将軍継嗣問題では一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を推したため、安政の大獄にて永蟄居処分となりました。
万延元年(1860年)に幕府大老の井伊直弼が暗殺されると、文久2年(1862年)赦免されて国事御用係に就任します。
このときから、還俗して「中川宮」を称するようになります。
その後、公武合体派の中心的存在となった中川宮は、孝明天皇から厚い信頼を受け、長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちと激しく対立するようになります。
そして、文久3年(1863年)には、孝明天皇の内意を引き出して長州派公卿と長州藩士を京から追い出します。
世にいう「八月十八日の政変」ですね。
これにより、中川宮は長州系尊攘志士たちの恨みの対象となり、翌年の池田屋事件で新選組に討ち取られた過激派志士たちの計画では、中川宮の邸に火をかける予定だったといいます。
新選組さまさまですね。
しかし、その後、幕府の長州征伐の失敗、第14代将軍・徳川家茂の逝去、孝明天皇崩御と立て続き、中川宮の勢力は急速に失墜し、やがて大政奉還、王政復古の大号令と世情が移り変わると、中川宮は広島藩預かりとなり、政治の表舞台から姿を消すことになります。
明治5年(1872年)に謹慎を解かれて復権し、新たに久邇宮家を創設。
しかし、中央政界には加わらず、伊勢神宮の祭主等を務め、明治24年(1891年)10月25日に病没します。
享年67。
中川宮が禁門の変(蛤御門の変)の4日前の元治元年7月15日(1864年8月16日)から大政奉還の半月前の慶応3年9月29日(1867年10月26日)まで書き綴った日記『朝彦親王日記』は、幕末の一級史料として後世のわたしたちに歴史を伝えてくれています。
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by sakanoueno-kumo | 2018-08-17 23:38 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)