幕末京都逍遥 その121 「葉山観音(一燈寺)・梅田雲浜旧蹟碑」
洛北の一条寺にある葉山観音を訪れました。
正式には一燈寺といいます。
ここは、かつて梅田雲浜が住んでいたと伝わるお寺です。
一燈寺は、江戸時代前期、後水尾天皇(第108代天皇)の皇女の朱宮光子内親王(元瑤禅尼)が観世音菩薩を信仰し、堂宇を整備したのが始まりとされています。
東山三十六峰のひとつである葉山の中腹にあることから、「葉山観音」と呼ばれてきました。
平成25年(2013年)の豪雨で境内に土砂崩れがあり、現在も復興されないまま立入禁止になっています。
柵の間から中を覗くと、ブルーシートに覆われた状態で放置されていました。
境内には、「梅田雲浜旧蹟碑」と刻まれた石碑があります。
幕末、梅田雲浜の一家が、一時期、ここの堂守小屋に住んでいました。
梅田雲浜は若狭国小浜藩出身の儒学者で、8歳にして藩校・順造館に入り、その英明さは大いに期待されましたが、頭脳が切れすぎたせいか、立場をわきまえずにものを言うところがあり、藩主への建言が幕府批判と取られ、藩籍を剥奪されてしまいます。
その浪人中に住み込んでいたのが、ここ一燈寺でした。
生活はたいへん苦しかったようで、西郷隆盛が雲浜を尋ねてここを訪れたときには、着ていた着物を質に入れて酒を買い、もてなしたといいます。
その後、雲浜は「その45」で紹介した屋敷に移住し、そこで安政の大獄によって捕らえられ、獄中死します。
その墓は、「その12」で紹介した安祥院にあり、東山霊園に慰霊碑があります。
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by sakanoueno-kumo | 2018-08-29 23:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)
でも、考えてみれば、条件は橋本左内と一緒ですよね?
頼山陽も含め、なぜ、彼らには光が当たらないのでしょうか?
たぶん、いちばんの理由は、橋本左内は若くして処刑されたということではないでしょうか?
あとの3人は年食ってましたから。
加えて左内はイケメンですから、聡明でイケメンな若者の死は、同情を集めますからね。
あと、これも多分に享年に関係してくると思いますが、ピュアなイメージの左内に対して、雲浜などは、どこか狂人の印象があります。
これも、後世の物語などの影響かもしれませんが。
狂人ということであれば、吉田松陰も同じかもしれませんが、松蔭の場合、のちの長州閥が、実像以上に英雄化させたところがあったでしょうし。