幕末京都逍遥 その129 「壽寧院(お龍・楢崎将作顕彰碑)」
天龍寺の塔頭・壽寧院に、坂本龍馬の妻・お龍と、その父・楢崎将作の顕彰碑があると知り、立ち寄ってみました。
なぜ、ここに顕彰碑があるのか・・・。
龍馬の死後、しばらくは長府藩士の三吉慎蔵がお龍の面倒をみていましたが、その後、土佐の龍馬の実家に身を寄せます。
しかし、都育ちのお龍には土佐の暮らしは馴染めず、わずか3ヵ月ほどで立ち去ることになり、その後、妹夫婦の世話になったりしたのち、龍馬の墓所近くで墓守をしながら暮らしていましたが、それも長くは続かず、東京へ出て勝海舟や西郷隆盛に頼り、神奈川宿の料亭で仲居として働いていた明治8年(1875年)、横須賀で造船所を営む西村松兵衛と再婚し、西村ツルと改名しました。
明治16年(1883年)から土陽新聞に掲載された坂崎紫瀾の『汗血千里駒』がベストセラーとなり、それまで忘れられた存在だった龍馬の名が広く世間に知られるようになると、その妻だったお龍の周りも取材などで騒がしくなります。
お龍の回顧談をまとめた『反魂香』の作者である安岡秀峰が明治30年(1897年)に訪ねたときの話では、お龍は横須賀の狭い貧乏長屋で暮らしていて、アルコール依存症状態となり、酔っては「私は龍馬の妻だ」と夫の松兵衛に絡んでいたといいます。
そんなお龍に嫌気がさしたのでしょうか、松兵衛は、当時夫に先立たれて頼ってきていたお龍の妹・光枝と内縁関係になってしまい、ふたりで家を出ていってしまいました。
なんとも酷い話のように思いますが、酔っては前の夫のことを口にして絡んでくるような嫁では、逃げ出したくもなるでしょうね。
でも、嫁の妹はマズいわな。
明治39年(1906年)1月15日、お龍は66歳でその生涯を閉じます。
晩年は寂しい最後でしたが、しかし、お龍が亡くなる2年前の明治37年(1904年)、日露戦争開戦直前に美子皇后の夢枕に坂本龍馬が立ったという話が広まり、再び龍馬が世間の注目を集めており、お龍が危篤に陥ると、皇后大夫・香川敬三(元陸援隊士)から御見舞の電報が送られ、海軍大将・井上良馨が救護の募金を集めたそうです。
その後、田中光顕や香川敬三の援助を受けて、妹の光枝が施主、夫の西村松兵衛らが賛助人となり、横須賀に墓が建てられました。
墓碑には夫の西村松兵衛の名ではなく「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれ、また、遺言により、龍馬の眠る京都霊山護国神社と京都八瀬西林寺にあった父・楢崎将作の墓に分骨されたそうです。
しかし、やがて将作の墓は無縁仏となり、見かねた西村家の子孫の方が、「楢崎将作・坂本龍子顕彰会」と共にこの地に移葬して顕彰碑を建てたそうです。
長くなりましたが、ここに顕彰碑があるのは、そんな経緯です。
碑には、龍馬がお龍との別れ際に詠んだと伝わる歌が刻まれています。
又あふと思う心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな
石碑の背面には、将作とお龍の足跡が。
その向かいにある銘板には、将作とお龍の名が刻まれ、その横には、西村家の子孫の方々のお名前が並んでいました。
楢崎家は途絶え、坂本家からは絶縁されたお龍ですが、西村家によってこうして祀っていただいているのは、ありがたい話ですね。
妹とのゲス不倫はマズかったですが。
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by sakanoueno-kumo | 2018-09-11 23:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)