幕末京都逍遥 その141 「坂本龍馬避難の材木小屋跡」

「その138」で紹介した寺田屋で伏見奉行所の捕り方の襲撃を受けた坂本龍馬三吉慎蔵は、からくも脱出に成功しますが、龍馬は数日前から風邪をひいていてがあり、また、襲撃時の戦闘によって負傷した指の傷がかなり深く、出血多量による極度の貧血も重なって動けなくなります。

やむを得ず、川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、身を潜めました。

現在、その材木小屋があったと推定されている場所には、「坂本龍馬、避難の材木小屋跡」と刻まれた石碑が建てられています。

石碑は寺田屋から直線距離にして400mほど北西にある大手橋の傍にあります。

普通に大人の足で歩けば5~6分の距離ですが、そこで力尽きるほど龍馬は弱っていたんですね。


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材木小屋の棚の上に隠れていたふたりでしたが、このとき奉行所が派遣した幕吏50人とも100人とも言われ、負傷した身で見つからずに逃げおおせるのは不可能でした。

もはや助かる道はなしと覚悟した三吉は龍馬に、ここで武士らしく切腹して果てようと進言します。

しかしそれを聞いた龍馬は、こう答えました。


「死ハ覚悟ノ事ナレバ、君ハ是ヨリ薩邸ニ走附ケヨ。若シ途ニシテ敵人ニ逢ハゝ必死夫レ迄ナリ僕モ亦タ與所ニテ死センノミト」


意訳すると、「死ぬ覚悟ができているのならば、君はこれより伏見薩摩藩邸へ走ってくれ。もし、その途中で敵に会えばそれまでだ。僕もまた、この場所で死ぬまでだ。」といったところでしょうか。

「生き死には天にまかせろ。切腹して果てるのも、敵に首を討たれるのも、死ぬことに変わりはない。ならば、体の動く限り生きることを考えろ。」ということですね。

このエピソードは、『三吉慎蔵日記抄録』の中に記されている話で、後年の三吉が語ったものです。

龍馬の死生観を窺えるエピソードですよね。

龍馬にまつわる数々のエピソードのなかで、私の最も好きな話です。


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龍馬に説得された三吉は、川で染血を洗い、わらじを拾って旅人に身を変じ、伏見薩摩藩邸に駆け込んで救援を求めました。

薩摩藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、その留守居役だった大山彦八は、薩摩藩の旗印を掲げたを出して龍馬を救出に向かい、無事助け出しました。

その川が、下の写真です。

石碑のすぐ東に流れています。


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伏見薩摩藩邸はこの川を500mほど北上した場所にありました。

材木小屋のあった場所は、『三吉慎蔵日記抄録』では濠川の左岸南方にあったと伝えており、ここ大手橋付近の説と、もう少し薩摩藩邸に近い土橋付近の説があるそうです。

伏見観光協会などでは、大手橋の説をとってこちらに碑を建てたそうです。


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このとき京の薩摩屋敷にいた西郷隆盛は、翌朝この知らせをうけ、彼を知るまわりの者たちも生涯見たことがないほどの怒気を発したといいます。そして、おそらく伏見奉行所が龍馬たちの引き渡しを要求に来るであろうと見た西郷は、兵力に訴えてでも拒否するという方針を示し、薩摩藩自慢の英国式一個小隊をつけ、吉井幸輔(友実)に指揮官を命じ、伏見薩摩屋敷の警護にあたらせ、さらに、龍馬の負傷を聞いて藩医・木原泰雲も同行させました。このときの薩摩の行動に対して、「実に此仕向けの厚き、言語に尽す能はず。」と、『三吉慎蔵日記抄録』に記されています。

龍馬と三吉のギリギリの「大脱出」物語

このとき龍馬が三吉に言った言葉が、龍馬をあと1年10カ月の間生かすこととなり、三吉慎蔵にいたっては明治34年(1901年)まで生かすことになります。

龍馬にとって三吉は命の恩人であることは間違いないですが、三吉にとっても、龍馬は命の恩人といえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-30 02:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

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