幕末京都逍遥 その150 「鳥羽伏見の戦い勃発地(小枝橋)」
伏見から3kmほど北上した鳥羽地区に移動します。
名神高速道京都南ICから少し南下して西へ折れると、南北に流れる鴨川にあたるのですが、そこに小枝橋という鴨川に架かる橋があります。
この橋は、鳥羽・伏見の戦いの戦端が開かれた場所と伝わります。

慶応4年1月2日(1868年1月26日)、薩摩藩との戦いを決意した徳川慶喜は、朝廷の判断を仰ぐために1万5千の大軍を大坂から京へ進めます。
その進軍ルートは2つ、会津藩・桑名藩・新選組は「その147」で紹介した伏見奉行所を目指し、旧幕府軍は鳥羽街道を北上して洛中を目指しました。
これに対して薩摩藩を中心とした新政府軍は、ここ小枝橋から東にある城南宮に向けて東西に長い陣を布いて北上軍への備えとし、また「その146」で紹介した伏見の御香宮にも砲兵部隊を配置します。

3日午前、旧幕府軍と新政府軍が、ここ小枝橋で接触します。
旧幕府軍を率いていたのは大目付の滝川具挙でした。
滝川はこの1週間前の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に起きた江戸の薩摩藩邸焼討事件の報を慶喜にもたらし、江戸での薩摩藩士の横暴を説き、旧幕府軍を強硬論に導いた人物でした。

滝川は立ちふさがった新政府軍に対して「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」と要求します。
ところが、ここを守備していた薩摩藩の椎原小弥太は、「朝廷に確認するまで待て」と、行く手を阻みます。
そこから長時間にわたって「通せ」「通さない」の押し問答が繰り返され、このままでは埒が明かないとしびれを切らした滝川は強行突破を試みますが、これに対して新政府軍が発砲し、これをきっかけに戦闘がはじまります。

この砲声は3kmほど南の伏見にも届き、それを合図に同時スタートのように戦闘が始まりました。
こうして鳥羽・伏見の戦いが起こります。

現在の小枝橋です。
当然ですが、いまは鉄筋コンクリート製です。

当時の小枝橋は、ここより少し南に架かっていたそうです。
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by sakanoueno-kumo | 2018-10-17 23:12 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)