幕末京都逍遥 その153 「鳥羽伏見の戦い 下鳥羽戦跡」
慶応4年1月3日(1868年1月27日)の夕方に始まった鳥羽・伏見の戦いは、日没を迎えてもなお戦闘は続きました。
兵力は旧幕府軍が約1万5000だったのに対し、新政府軍は約5000と明らかに劣勢でしたが、それを補える高性能の武器を揃えていたこと、また陣形、戦術ともに新政府軍が勝っていたことなどから、旧幕府軍は死傷者が続出し、やむなく下鳥羽方面に退却します。
現在、その下鳥羽の桂川に面した道路沿いに、「鳥羽伏見戦の跡」と刻まれた石碑が建てられています。

開戦から1日経った1月4日も、ここ下鳥羽付近で激戦が繰り広げられ、一時は旧幕府軍が盛り返しますが、ここで新政府軍は「錦の御旗」を掲げるんですね。
錦の御旗は、新政府軍が天皇の軍隊であることを示すもので、この時点で、すなわち新政府軍は官軍、旧幕府軍は天皇に逆らう賊軍ということになりました。
これを見た旧幕府軍の兵たちの士気は大きく低下し、またたく間に総崩れとなりました。

この「錦の御旗」ですが、実は朝廷からもらったものではなく、岩倉具視が勝手に作った代物だと言われていますね。
いずれ始まるであろう旧幕府との開戦に備えて、岩倉が秘書官の玉松操に調べさせた資料を参考に、薩摩の大久保利通や長州の品川弥二郎らと相談して作ったものだと言われています。
実物は誰も見たことがないわけですから、それらしければいいということで、大久保利通の愛妾のおゆうが祇園で買ってきた錦紗銀紗の布を長州に運んで、2ヶ月がかりで完成させたもので、いわば捏造品だったわけです。

偽物であれ何であれ、かつて南北朝時代でも足利尊氏が戦局を有利にするために御旗を利用したように、このときの錦の御旗も絶大な効力を発揮します。
そもそも、本来この戦いに朝廷は関係なく、薩長と旧幕府の私闘だったのですが、この錦の御旗を掲げたことにより、戦いを「義戦」にしたわけです。
自分たちから喧嘩を吹っかけておいて、相手が挑発に乗ってきたら、「正義」を主張する。
ずるいですね。
それにしても、御旗の納品がよく間に合いましたね。
もうちょっと製作が遅れていたら、戦いは違った結末を見ていたかもしれません。
そう考えれば、歴史は薩長の策謀に味方したということかもしれませんね。
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by sakanoueno-kumo | 2018-10-25 00:47 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)