幕末京都逍遥 その157 「戊辰役東軍戦死者埋骨地・八番楳木(千両松)戦場跡」
「その156」で紹介した愛宕茶屋埋骨地から600mほど南東にも、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた墓碑があります。
ここは現在、京都競馬場の北側の道路沿いです。
この墓碑も、「その155」「その156」前々稿で紹介したものと同じく、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。
かつてこの地には川が流れていて、狭い堤防上の道で「淀堤」と呼ばれていました。
そこに「千両松」と呼ばれた松並木がありました。
「千両松」とは、豊臣秀吉が植えたと伝わる松で、そのあまりの見事さにその名が付いたとされます。
その千両松付近で、鳥羽・伏見の戦いが始まって3日目の慶応4年1月5日(1868年1月29日)、激しい戦闘が繰り広げられます。
ここで戦った旧幕府軍は、土方歳三率いる新選組と、佐川官兵衛率いる会津藩の部隊が中心でした。
剣客揃いだった彼らは、この狭い淀堤の上を通る新政府軍をこの地で待ち伏せして一斉に斬り込み、一時は新政府軍に多数の死傷者を出すなど戦いを優勢に進めますが、その後、千両松並木の奥に退却した新政府軍が、体制を立て直して一斉射撃を開始すると、形勢は逆転して旧幕府軍は壊滅します。
この戦いで新選組のメンバー14名が戦死したと伝わります。
その中には、新選組結成当時からのメンバーで六番隊組長だった井上源三郎がいました。
源三郎とともに戦っていた甥の泰助は源三郎の首を持って逃げましたが、まだ少年だったので首の重さに耐えきれなくなり、通りかかった寺の門前に泣く泣く埋めたといいます。
この惨敗によって、土方歳三は剣の時代が終わったことを悟ったといいます。
墓碑の横にある石碑には、次のように記されています。
幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない。
それが日本人同族の争いでもあり、いづれもが正しいと信じたるま々に、それぞれの道へと己等の誠を尽くした。
然るに流れ行く一瞬の時差により、或る者は官軍となり、或るは幕軍となって、士道に殉じたので有ります。
ここに百年の歳月を関し、其の縁り有る、此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し慰霊碑の建つるを見る。
在夫の魂以て冥すへし。
また、裏面にはこ記されています。
慶応四年戊辰正月、伏見鳥羽の戦いに敗れ、ここ淀堤千両松に布陣し、薩摩長州の西軍と激戦を交し、非命に斃れた会津・桑名の藩士、及び新選組、並びに京都所司代見廻組の隊士に捧ぐ。
この千両松の戦いは、鳥羽・伏見の戦いの中でも最も激しい戦いだったと伝えられます。
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by sakanoueno-kumo | 2018-11-01 23:37 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)