幕末京都逍遥 その158 「戊辰之役東軍戦死者之碑(妙教寺)」
「その156」で紹介した愛宕茶屋埋骨地から500mほど南西に歩くと、妙教寺というお寺があります。
ここも、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、戦火に巻き込まれました。

ここ妙教寺のある納所・淀方面に主戦場が移ったのは、戦いが始まって3日目の1月5日でした。

境内には、「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻まれた石碑があります。
明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうで、揮毫は榎本武揚によるものだそうです。
榎本武揚といえば、旧幕府軍として戊辰戦争を最後まで戦った人物。
東軍戦死者の招魂碑の揮毫者としては最も適任だったといえるでしょう。

側面には、「戦死者埋骨地三所一 在下鳥羽村悲願寺墓地 一 納所村愛宕茶屋堤防 一 八番楳木」と刻まれています。
「その153」 「その154」 「その155」で紹介した東軍戦死者埋骨地を示したものです。

境内にはもうひとつ、鐘楼の側にも関連の石碑があります。

石碑には「史跡 淀古城址 戊辰役砲弾貫通跡」と刻まれています。
ひとつは、かつてこのあたりに淀古城があったとする記述です。
現在、この少し南に淀城跡がありますが、そこは江戸時代に入ってから築城されたもので、ここで言う淀古城とは、豊臣秀吉の時代、淀殿が居城としていたと伝わる淀城です。

そしてもうひとつ、「戊辰役砲弾貫通跡」とあるのは、ここの本堂に鳥羽・伏見の戦い時の砲弾の跡が残されているという標示です。
伝承によると、ここ妙教寺の上を両軍の砲弾が飛び交ったといい、そのうちの1発が本堂南側の壁と位牌壇を突き破り、北側の柱も貫通したそうです。
寺にはその際飛び込んだ「四斤山砲」と呼ばれる重さ4kgもある砲弾も伝わるそうで、水平に近い弾道は、砲弾がかなりの速さで飛び込んだことを伝えています。
当時の住職の記録には、「銃丸雨の如く集まる」「嗚呼危うかりし哉」と記されているそうで、その後、戦いを後世に伝えようと、穴の開いた壁や柱をそのまま残したといいます。

わたしが訪れたこの日は、お寺の関係者の方々が不在だったようで、残念ながら本堂の中に入ることができませんでした。
超残念。

石碑の説明書きには、「慶應四年正月四日」と記されています。
戦史の記録では、このあたが主戦場となったのは1月5日だったと思うのですが、この砲弾はその前日の4日に撃ち込まれたことになっていますね。
4日はもう少し北の下鳥羽付近が主戦場だったはずですが、ここ納所・淀方面でもすでにドンパチが始まっていたということでしょうか。
戦いが広範囲に渡って繰り広げられていたことがわかる記録です。
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by sakanoueno-kumo | 2018-11-02 23:18 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)