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幕末京都逍遥 その162 「淀城跡」

京都競馬場から500mほど西に、淀城跡が残されています。

淀城は、鳥羽・伏見の戦いの勝敗を決定づけた城です。


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淀城は、廃城となった伏見城に代わって、元和9年(1623年)のに江戸幕府2代将軍徳川秀忠松平定綱に築城を命じ、寛永2年(1625年)に完成した平城です。


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淀は「与渡津」(淀の港の意)と呼ばれ、桂川、宇治川、木津川という3つの川の合流点として古くから水運の要衝で、また、河内国、摂津国方面や大和国方面から山城国、京洛に入る交通の要衝でもあったため、この地に城が築かれたのでしょう。


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淀城が築かれた場所は、その桂川、宇治川、木津川に挟まれた川中島でした。

説明板に描かれた縄張り図から想像すれば、水に浮かぶ要塞といった様相の城だったんじゃないでしょうか。


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以後、淀城の城主は初代・松平家のあと、永井家、石川家、戸田家、松平家、稲葉家と移り変わりますが、いずれも譜代大名ばかりで、京都を守護する役目とともに、西国諸藩に睨みを利かせる役目も担っていました。


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天守台跡です。


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石垣は「打込み接ぎ」ですね。

寛永2年(1625年)完成ということですが、まだ、ここでは「切込み接ぎ」の工法は用いられなかったようです。


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文献によると、築城当時、この上には二条城の旧天守が移築されたそうですが、天守台に比べて旧天守が小ぶりだったため、天守台の四隅に小さな櫓を建ててそれらを多聞櫓で繋ぎ、その中央に天守を乗せるという独特の構造になっていたといいます。


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天守台の中央には入れないように柵が設けられ、石垣の上にも上れないようになっていました。

遺構を守るため、やむを得ないのでしょう。


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南面石垣塀の上から内堀を眺めます。

天守台の石垣のカーブが見事ですね。


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天守台前から見下ろした城跡公園です。


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慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで劣勢に立った旧幕府軍は、1月5日、納所・淀方面まで後退して新政府軍を迎え討ちます。

しかし、ここでも旧幕府軍は苦戦を強いられ、「その155」で紹介した千両松の戦いで敗れたあと、ここ淀城に逃げ込んで体勢を立て直そうと考えます。

ところが、淀藩は固く城門を閉ざし、入城を拒否します。

上述したとおり淀城は幕府譜代大名の城であり、当時の藩主だった稲葉正邦は幕府の要職である老中を務めていました。

当然、淀藩は旧幕府軍の味方だと思っていたでしょうから、この入城拒否は思いも寄らない衝撃だったでしょう。


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実は、このとき、藩主の稲葉正邦は江戸にいて不在で、入城拒否を決めたのは、城代家老の田辺権太夫でした。

権太夫はかねてより、時代の趨勢を見据えて幕府の末期を悟っており、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐の際にも出兵の反対を強く主張した家老でした。

このときも権太夫は戦況諸藩の動向を冷静に観察し、また、前日に新政府軍が錦の御旗を掲げたこともあり、新政府軍に恭順方針を決めました。

つまり、譜代大名である藩主の許可なしで一藩あげて徳川家に反旗を翻したわけです。

もはや幕府のみならず、封建制自体が末期症状だったことがわかりますね。


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城跡公園内には、「田邊治之助君記念碑」と刻まれた石碑があります。

田辺治之助は入城拒否を決めた田辺権太夫の弟で、物頭役だった治之助は大手門の守衛を指揮していましたが、その警衛の隙を突かれて旧幕府兵の侵入を許してしまい、その責任を取って自決しました。

この碑は、戊辰戦争勃発70年にあたる昭和13年(1938年)に建てられたもので、揮毫は、最後の藩主である稲葉正邦から2代下った稲葉正凱です(正凱の父が養子だったため孫ではありません)。


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また、冒頭でも紹介した、この「淀城址」と刻まれた石碑の揮毫も稲葉正凱です。


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城跡公園内の北西の隅櫓跡の石垣です。


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その上には、「明治天皇御駐蹕之址」と刻まれた石碑があります。


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側の記載によると、慶応4年(1868年)3月の明治天皇大坂行幸の際、ここ淀城にて一泊されたそうで、昭和3年(1928年)の昭和天皇御即位の大礼に際して、史実の記録と後世への伝達のため建立したと記されています。


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せっかくなので、内堀の外も歩いてみました。


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内堀外側南東から見た天守台です。


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城入城を断念した旧幕府軍は、淀小橋淀大橋を焼き落とし、また、城下町の民家にも火を放って新政府軍の進路を絶ち、大坂城に逃げ帰りました。

将軍・徳川慶喜が江戸城にドロンしたのは、その翌日の夜のことです。

ここ淀城の入城拒否が、鳥羽・伏見の戦いの勝敗を決定づけたといっても過言ではないでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-15 04:45 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)

 

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