幕末京都逍遥 その163 「東寺」
舞台は洛中に戻って、世界遺産に指定されている東寺にやってきました。
ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍の本陣が布かれた場所です。

周知のとおり、鳥羽・伏見の戦いの勝敗を決定づけたのは、新政府軍が掲げた「錦の御旗」だったといわれています。
このとき征討大将軍として新政府軍の大将だった仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)は、戦いが始まって2日目の1月4日、天皇から節刀とともに下賜されたという錦の御旗を掲げ、ここ東寺に入りました。

錦の御旗は、新政府軍が天皇の軍隊であることを示すもので、この時点で、すなわち新政府軍は官軍、旧幕府軍は天皇に逆らう賊軍ということになりました。
これを見た旧幕府軍の兵たちの士気は大きく低下し、またたく間に総崩れとなりました。

この「錦の御旗」ですが、実は朝廷からもらったものではなく、岩倉具視が勝手に作った代物だと言われていますね。
いずれ始まるであろう旧幕府との開戦に備えて、岩倉が秘書官の玉松操に調べさせた資料を参考に、薩摩の大久保利通や長州の品川弥二郎らと相談して作ったものだと言われています。
実物は誰も見たことがないわけですから、それらしければいいということで、大久保利通の愛妾のおゆうが祇園で買ってきた錦紗銀紗の布を長州に運んで、2ヶ月がかりで完成させたもので、いわば捏造品だったわけです。

偽物であれ何であれ、かつて南北朝時代でも足利尊氏が戦局を有利にするために御旗を利用したように、このときの錦の御旗も絶大な効力を発揮します。
そもそも、本来この戦いに朝廷は関係なく、薩長と旧幕府の私闘だったのですが、この錦の御旗を掲げたことにより、戦いを「義戦」にしたわけです。
自分たちから喧嘩を吹っかけておいて、相手が挑発に乗ってきたら、「正義」を主張する。
ずるいですね。
それにしても、御旗の納品がよく間に合いましたね。

東寺のシンボル、高さ55mを誇る五重塔です。
西郷隆盛はこの五層目に上がり、伏見の戦局を眺めたといいます。

後年、西郷隆盛が鳥羽・伏見の戦いを回顧して、
「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」
と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、あるいは、その砲声を聞いたのは、ここ東寺だったかもしれませんね。
「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。
↓↓↓
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-11-16 17:18 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)