幕末京都逍遥 その165 「鳥羽伏見の戦い防長藩士の墓」
東福寺の山門から南東に100mほど歩いたところに、「その164」で紹介した「防長忠魂碑」に刻まれていた鳥羽・伏見の戦いで戦死した48名の墓があります。
山門をくぐって東へ坂道を上っていくと、「右 維新戦役 防長藩士之墓道標」と刻まれた石碑があります。
ここから、石畳の坂を登っていきます。
この道は、頂上にある仲恭天皇陵に続く参道です。
防長藩士の墓は、この坂を上りきる手前にあります。
ここが防長藩士の墓所です。
高さ150cmほどの同じ大きさの墓碑が整然と並びます。
鳥羽・伏見の戦いは慶応4年1月10日(1868年2月3日)に終わり、特に激戦だった千両松の戦い(参照:その155)で戦死した石川厚狭介を含む長州藩士の24名の遺体がここに運ばれ、1名ずつ木の墓標が建てられて埋葬されました。
そして、東福寺塔頭の退耕庵が菩提所となり、毎年1月4日を命日として慰霊祭が執行されるようになったそうです。
これをバックアップしていたのが、維新後、子爵となった品川弥二郎でした。
晩年の品川は「その78」で紹介した尊攘堂を建てて勤王の志士を慰霊に力を注いでいました。
その後、明治33年(1900年)の三十三回忌に14名の戦傷病死者が追祀され、さらに、
大村益次郎襲撃に遭遇して闘死した静間彦太郎なども加えられて現在の48基になり、これに合わせて墓標が現在の石標に替えられ、墓地も整備されたそうです。
左が、千両松の戦いで戦死した石川厚狭介の墓です。
右側が静間彦太郎の墓。
墓所敷地中央には、三十三回忌の際に設置された大石灯籠があります。
「崇忠之碑」と刻まれたこちらの石碑も、三十三回忌の際に設置されたそうです。
碑文は幕末から明治にかけて活躍した長州藩出身の国学者・近藤芳樹。
墓所の上に見えるのは、鎌倉時代の第85代・仲恭天皇九條陵です。
時代はまったく違いますが、ここに眠るのは皆、勤王の志士たち。
天皇陵に見守られながら眠るのは、志士の本懐だったかもしれません。
「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。
↓↓↓
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2018-11-18 01:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)