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西郷どん 第44話「士族たちの動乱」その1 ~喰違の変と愛国公党~

 明治6年の政変によって西郷隆盛を始めとする征韓派下野しますが、この政府分裂は世の不平士族たちをいっそう刺激することとなり、当時、盛んになり始めていた新聞雑誌などでも、激しく新政府を言論攻撃するようになります。その攻撃の矛先は、政変を指導した大久保利通岩倉具視に向けられました。


 明治7年(1874年)1月14日、宮中での晩餐会を終えて帰路についていた岩倉が、何者かによって襲撃されました。場所は赤坂喰違見附。この頃、皇居はこの前年の火災によって焼け落ちており、赤坂の迎賓館が仮皇居となっていました。そのため、江戸城二重橋前あたりに自宅が会った岩倉は、毎日この喰違見附を通るのが通勤コースとなっていたんですね。テロリストは、それを知って待ち伏せしていました。


e0158128_11234954.jpg 岩倉は馬車に乗っていましたが、襲撃団はいっせいに馬車に飛びかかり、なかの岩倉に刀を浴びせました。岩倉は眉の下を斬られ、横なぐりの刀が入りましたが、幸い帯に差していた短刀が、これを防ぎました。岩倉はとっさに馬車から転がり落ち、そのまま江戸城(当時は東京城)外堀に転がり落ちて、水の中に潜って顔だけを水面から出し、息を殺して身を隠したといいます。その間、何度か刺客がすぐ側を通ったといいますが、岩倉は動揺することなくひっそりと潜んでいました。さすがは幕末に何度も命を狙われた経験を持つ岩倉です。公家出身のなかでは、異端といえる度胸の持ち主でした。これが三条実美だったら、動揺して慌てふためいている間に、簡単に斬り殺されていたでしょう。岩倉がただ倒幕派志士たちに担がれただけのお飾りだったわけではないことがわかりますね。ドラマの岩倉は、ちょっとカッコ悪すぎじゃないでしょうか?


 e0158128_15131733.jpg報せを受けた大久保は、不平士族による政府高官の襲撃という事態を重く見、ただちに警視庁大警視川路利良に早急な犯人捜索を命じます。そして事件の3日後、犯人は逮捕されますが、捕まった犯人は士族の武市熊吉を始めとする9名で、いずれも土佐士族でした。土佐系の高官は、先の政変で板垣退助、後藤象二郎以下、ほとんどが官を辞してしまい、政府にとどまったのは佐々木高行谷干城などわずか数人で、その結果、土佐系士族のほとんどが新政府に不満を持つ野党となりました。これが、のちの自由民権運動につながっていくんですね。


 逮捕された9名は、同年7月9日、司法省臨時裁判所において裁かれ、全員が斬首刑の判決を受け、同日、伝馬町牢屋敷にて首を落とされました。


 e0158128_19013010.jpgまた、ドラマでは描かれていませんでしたが、同じ頃、西郷とともに下野した征韓派の板垣、後藤、江藤新平、副島種臣の4人の前参議が、由利公正などの同志とともに連署して、政府に対して民撰議院設立建白書を提出しました。主唱者は板垣で、その内容は、有司専制(一部の藩閥政治家数名で行われている政治)を批判し、民選の議会開設、つまり、選挙によって選ばれた議員による議会の設立を要望するものでした。そして、それと前後して、板垣たちは愛国公党を結成します。これが日本最初の政党と言われています(もっとも、2ヶ月後に解散していますが)。当初、板垣はこの結党に西郷も誘ったといいますが、西郷はその主旨には賛同しつつも、それが言論で実現するとは思わないとして、連署には加わらなかったといいます。西郷は大久保政府を批判する行動には加担したくなかったか、あるいは、板垣主導ではなく、自身の主導で事を起こしたかったのか、それとも、このときすでに、別の方法で政府を倒すことを視野に入れていたか・・・。今となっては確かめようがありません。


 こうして、各方面で新政府に対する不満が暴発し始めていました。やがて、それが士族の反乱へと発展してくことになります。その魁となったのが、佐賀の乱でした。

 続きは明日の稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2018-11-26 01:04 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

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