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西郷どん 第44話「士族たちの動乱」その2 ~佐賀の乱~

 昨日の続きです。 

 新政府に対する不平士族たちの反乱の狼煙は、まず九州の佐賀において上がります。佐賀は、いわゆる「薩長土肥」の一角として維新政府に人材を輩出していましたが、その実は薩長主導のもとその風下に立たされており、佐賀人はその憤懣を募らせていました。そんな背景のなか、明治6年の政変によって、江藤新平、副島種臣が政府からはじき出されたことが導火線となり、明治7年(1876年)2月1日、3000人近い士族が武装蜂起します。


 当時、佐賀には「征韓党」「憂国党」という2つの政治党派がありました。「征韓党」は、西郷隆盛や江藤新平が主張した征韓論を支持する党派で、「憂国党」は、維新政府の近代化そのものを否定し、政体をかつての封建制に戻せと主張する集団でした。この2つの党派はもともと国家観文明観が異なり、目指すところが違っていたのですが、新政府に対する憤懣という一点のみで同調し、ともに決起することになります。しかし、主義主張で共闘すべきスローガンを共有していなかったため、両党は司令部も別々でした。


e0158128_22240827.jpg 当時、東京にいた江藤新平は、佐賀士族たちの武装蜂起の報せに驚愕し、急いで佐賀に帰郷します。同じく、同郷で天皇の侍従や秋田県の初代権令などを務めた島義勇も、佐賀に向かいます。当初、2人の帰郷の目的は、反乱士族たちをなだめるためだったといいます。しかし、先に佐賀に入った島が憂国党の首領に担がれ、遅れて2月11日に佐賀に入った江藤も、島と会談して翌12日に征韓党の首領に担がれます。こうして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を起こすことになるんですね。江藤が佐賀に帰郷することを決意したとき、同郷の大隈重信大木喬任らは、いま帰郷すると反乱軍の神輿に担がれる可能性が高いと憂慮して必死で説得しましたが、江藤は聞く耳を持たず、不平士族たちを説得する自信があるとして強行しましたが、結果は、大隈たちの心配どおりとなりました。あるいは、江藤自身、こうなることは想定済みだったかもしれません。


 e0158128_15131733.jpg佐賀士族挙兵の報せが東京の大久保利通の耳に入ったのは、まだ江藤が佐賀に入っていない2月3日でした。大久保はすぐさま陸軍大輔の西郷従道に手配を命じ、熊本鎮台に出兵を下令しました。司令官は谷干城少将。このとき佐賀に向かった政府軍の総兵力は約5400人だったといい、これは、この時期の日本軍の可動兵員数の半数にあたりました。また、海軍からも軍艦2隻が出動します。そしてさらに、大久保は自らも九州に出向き、反乱の鎮圧に当たります。このとき大久保は、佐賀における軍事、行政、司法三権全権の委任を受けての佐賀入りでした。つまり、現代で言えば、軍の司令長官警察庁長官最高裁判所の裁判長内閣総理大臣をすべて兼ねた状態だったということで、これは、あらゆる事柄において、すべて大久保の独断で専決できるということでした。たとえ一時的だったとはいえ、大久保ひとりが国家権力のすべてを掌握したかたちだったんですね。大久保は、この政変以後の最初の士族反乱を、完膚なきまでに潰したかったのでしょうね。


 戦いの詳細は省きますが、反乱軍は一時、優勢に立ったこともありましたが、結局、半月ほどで鎮圧されました。江藤は戦場を離脱し、鹿児島に向かいます。鹿児島には、江藤とともに下野した西郷がいました。もともと江藤らの武装蜂起の背景には、いま佐賀が決起することによって、薩摩、土佐を中心とした全国の反政府勢力が続々と呼応して立ち上がり、天下を挙げた大動乱に持ち込んで政府を転覆させるという狙いがあったとされます。その最も頼みの綱は、全国の不平士族の期待を一身に受けた薩摩の西郷でした。江藤は、その西郷に助力を求めるため、薩摩に向かったわけです。


 e0158128_15131310.jpgドラマでは、江藤が西郷の自宅を訪れていましたが、通説では、江藤と西郷が会ったのは鹿児島県の南端の指宿にある鰻温泉だったと言われています。江藤は熱弁を振るって西郷に薩摩士族の旗揚げを促しますが、西郷は動じることはありませんでした。西郷にしてみれば、敵前逃亡ともとれるかたちで士卒を残して戦場を離脱してきた江藤に対して、苦々しく思っていたのかもしれません。薩摩隼人の倫理としては、敗軍の将は士卒とともに潔く死ぬべきだと思うのが普通でした。しかし、江藤には江藤の正義があって、鹿児島まで落ち延びてきた。これも、西郷には理解できなかったわけではなかったでしょう。このとき西郷は、江藤に対して島津久光庇護を受けるよう勧めたといい、しかし、それは江藤のプライドが許さないことで、西郷の忠告を容れませんでした。このとき西郷は、珍しく声を荒げて「拙者がいうようになさらんと、当てが違いますぞ」と、叫んだといいます。この西郷の怒号を、たまたま聞いた宿の女将のハツが、この言葉をのちのちまで語り伝えています。


 結局、西郷の助力を得ることができなかった江藤は、土佐に渡って林有造、片岡健吉らの協力を得ようとしますが、これも失敗し、それでも諦めない江藤は、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みますが、その途上、政府の差し向けた追手に捕らえられて縄に付きます。江藤の逮捕は、手配写真が全国にバラ撒かれていたために速やかに捕らえられたといいますが、この写真手配制度は江藤自身が司法卿を務めていた明治5年(1872年)に確立したもので、その制定者である江藤本人が被適用者第1となったという皮肉な結果となりました。


 捕らえられた江藤は、東京での裁判を望みましたが、江藤の身柄は佐賀に護送され、4月8日から2回に分けて簡単な取り調べを受けたのち、4月13日、除族の上、梟首の刑を申し渡され、その日のうちに刑が執行されました。通常、士族は梟首という屈辱にみちた惨刑を受けることはありませんでしたが、このときの判決は、「除族の上」という判決を付け加え、つまり、士族を廃めさせた上でさらし首にするという強引な判決でした。これは、大久保の発案だったと言われています。大久保は、何が何でも江藤を惨刑に処することによって、全国に燻る不平士族への見せしめにしたかったのでしょう。4月9日の『大久保日記』には、「江東、陳述曖昧、笑止千万、人物推して知られたり」と書かれており、また、処刑執行された13日の日記には、「江藤、醜態、笑止なり」と記しています。大久保は自身の日記が後世の学者に読み解かれるであろうことを見越して、後世の印象操作もここで行っていたようなんですね。この、かつての同志であった江藤に対する残酷な処置が、後世に大久保利通という人物を冷酷で非情な人物と印象づけている所以でもあります。


 江藤の首は、処刑場から4km離れた千人塚に晒されました。そのさらし首の写真が撮影され、大久保の指示によって全国にバラ撒かれたといいます。これも、不平士族に対する見せしめだったのでしょう。そのさらし首の写真は、いまでも画像検索すると出てきます。ネット上でさらされている以上、未来永劫さらされ続けることになるでしょう。これも、大久保の計算だった・・・ってことはないでしょうが。


 江藤新平辞世

 「ますらおの  涙を袖にしぼりつつ  迷う心はただ君がため」


 明日の稿につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-27 00:14 | 西郷どん | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2018-12-04 15:48
大久保という人の江藤に対する部分については、私は少し違う感想を持っています。
後世の人に見られることを意識して書いたというよりも、後世の人に見られることさえも意識から消えてしまったのではないかと。
つまり、江藤に対する憎しみだけはそれほどに根深かったということで、元々、大久保という人は、自分を殺そうとした陸奥宗光などの命を助けたような人ですから、極めて、恬淡とした気性の人のように思うのですが、こと、江藤に対してだけは自分を見失うくらい、憎んで、憎んで、憎みきって、ぶち切れてるような気がしてなりません。
両者の間に何があったのか。
おそらく、史実には出てきていない何かがあったのだと思います。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-12-05 14:41
> heitarohさん

なるほど、たしかに。
そう言われてみれば、大久保らしからぬ言動ですね。
大久保といえば、すべての言動が政治という印象があるため、この江藤批判も政治的意図から出たものと思いがちですが、これに関してのみ我を忘れているということでしょうか?
たしかに、言われてみればそうかもしれません。
おおかたの見方では、大久保は江藤を極刑に処することによって、全国(とくに鹿児島)の不平士族に対する見せしめにしたと言われていますが、結局は約効果になって、大久保政権に対する憎悪が深まっただけですしね。

ちなみに歴史家の佐々木克氏はその著書のなかで、大久保が政府内の独裁者となったのは、北京談判後のことであり、佐賀の乱当時は、まだそこまでの存在ではなかったと説かれています。
したがって、江藤の惨刑は大久保の独断ではなく、政府の総意だったと。
たしかにそうかもしれません。

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