人気ブログランキング |

西郷どん 第44話「士族たちの動乱」その3 ~私学校の創設~

昨日の続きです。

明治6年の政変によって西郷隆盛下野し、明治6年(1873年)11月10日に鹿児島に帰郷しますが、このとき、西郷に追従するかたちで多くの官僚、軍人が辞職しました。その人数は、鹿児島県だけでも数百名に及んだといいます。代表的なところでは、桐野利秋、篠原国幹、淵辺群平、別府晋介、河野主一郎、辺見十郎太などで、彼らは、朝命で東京に残るよう命令されていたにも関わらず、それを無視して西郷とともに帰郷します。特に篠原などは、天皇から直々に在職を要請されましたが、それでも西郷に追従しました。それだけ西郷の人望の厚さがうかがえますが、同時に、この時期はまだ、後年のように天皇の威光が絶対的だったわけではなかったことがわかります。政府は、これを黙認せざるを得ませんでした。そして、下野した西郷が陸軍大将の職を固辞したにもかかわらず、政府は陸軍大将としての月給をその後も西郷に支給し続けました。政府は、よほど西郷の威望と薩摩士族の軍事的圧力を恐れていたのでしょう。


 帰郷した西郷は、農作業に勤しむかたわら、健康面を考えて湯治狩猟に取り組み、心身を癒す日々を送っていました。その一方で、西郷を追って帰郷した将兵たちの多くは、時勢を慷慨するばかりで無為に日々を過ごす者がほとんどだったといいます。このままでは鬱憤がたまる一方で、不測の事態も起こりかねない。そこで西郷は配下と相談し、彼らを教育するための学校を設立します。これが、有名な私学校です。


e0158128_22232804.jpgただ、一説には、西郷はそれほど私学校の運営に積極的に関与しようとはせず、むしろ、熱心だったのは、桐野、篠原、そして洋行帰り村田新八だったといいます。村田は、明治6年の政変の際は欧米視察中で日本にいませんでしたが、帰国して西郷の下野を知ると、辞職して鹿児島に帰郷しました。西郷に追従した薩摩人で、洋行帰りは村田だけでした。征韓論政変を大雑把に言えば、欧米を目の当たりにした洋行組と、日本を出たことのない留守組対立と見ることができますが、その論でいえば、ただ一人当てはまらないのが村田でした。西郷と縁の深い実弟の西郷従道や従兄弟の大山巌らですら、西郷の征韓論にははっきりと反対の立場を示し、追従して下野することなく東京に残りましたが、この村田だけは、大久保利通が認めるほどの人物でありながら、官を捨てて野に下りました。かと言って、欧米をこの目で見てきた村田は、桐野や篠原のように妄信的な政論を唱えるようなことはなく、なぜ、村田が下野してこの私学校に加わったのか、今もって謎です。村田さえいればと考えていた大久保は、村田の帰郷を聞いて呆然としたと伝えられます。


 e0158128_15131310.jpg私学校は、銃隊学校、砲兵学校、賞典学校からなっており、このうち、銃隊学校と賞典学校を篠原国幹が、砲兵学校を村田新八が、それぞれ監督者となりました。入校した人数は銃隊学校が500人以上、砲兵学校が200人以上で、少人数の賞典学校では将校の育成が行われました。そして私学校の教育方針は、西郷自身がまとめ、揮毫して壁に掲げました。


一、道を同じうし、義相協(かな)うを以て暗に集合せり。故にこの理を益研究して、道義においては一身を顧みず、必ず踏み行うべき事。


一、王を尊び民を憐れむは学問の本旨。然らばこの天理を極め、人民の義務にのぞみては一向(ひたすら)難に当たり、一同の義を立つべき事。


 つまり、道義、尊王、愛民の精神を極めろ、ということですね。敬天愛人スローガンとする西郷らしい教えだといえます。ただ、この精神論だけでは、西郷がこの学校を設立して何をしようとしていたのかはわかりません。一説には、不平士族の暴発を抑えるため、つまり士族を統御するための組織だったともいわれ、また別の説では、近い将来発生するであろうロシアとの軍事衝突に備えての組織だったともいいます。結局のところ、西郷の真意がどこにあったのかは定かではありませんが、やがてこの組織が、西郷を死地へと導いていくことになります。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-11-28 00:03 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

トラックバックURL : https://signboard.exblog.jp/tb/27687159
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
Commented by heitaroh at 2018-12-04 15:40
教えてたもんせ。
西郷従道はないごて、じゅうどうでごわすか?
従道がじゅうどうなら、隆盛はりゅうせいでなくてはならんとやごわさんか?
そもそも、じゅうどうち読むとは漢文読みでごわんそ?
伊藤博文をはくぶんと読むのと同じく、尊敬の念を込めるためのものでごわんそ?
信長公記はしんちょうこうき、義経記はぎけいき。
ないごて、従道だけ、じゅうどうで読むごとなったとでごわすか?
既出かもしれもはんが、最近、寝る間もないくらい忙しくしており、のび太を見捨てられないドラえもんの寛容さをもって、教えてくいやんせ。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-12-05 14:29
> heitarohさん

実は私も、けっこう長い間「つぐみち」だと思っていました。
確か「翔ぶが如く」では「つぐみち」だったような・・・。

従道の諱は、西郷家の通字が「隆」であることから、もともとは「隆興(たかおき)」でした。
明治に入るときに「隆道」と改名しようとしたそうですが、「りゅうどう」と口頭で登録しようとしたところ、役人が「じゅうどう」と聞き間違え、「従道」と記録されたと言われています。
じゃあ、なぜそのとき「たかみち」と読まなかったのかということになりますが、スミマセン、わかりません。

ちなみに兄の隆盛も、本当は「隆永」だったのに、吉井友実が勘違いして父の名前を登録してしまったため「隆盛」になったと言われますよね?
ふたりとも政府の高官だったわけですから、あとから訂正しようと思えば出来たはずなのに、それをしなかったというのは、彼らにとって名前はあくまで通称の「吉之助」「信吾」で、諱にはそれほど頓着しなかったのではないでしょうか。

ところで、スミマセン。
鹿児島弁で返答しようと思ったのですが、途中でわけが分からなくなってやめました(笑)。
親は鹿児島人ですが、わたしは生粋の関西人なので。

<< ブログ開設10周年のご報告。 西郷どん 第44話「士族たちの... >>