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西郷どん 第45話「西郷立つ」その2 ~西郷暗殺計画~

 昨日の続きです。

 各地で不平士族の反乱が勃発していた同じ頃、鹿児島県では、県令・大山綱良以下の役人には一人も県外人を入れず、すべて私学校とその分校の幹部を就かせて、県政は中央政府の法令には一切従わず、私学校の指導で行われていました。県下の租税はいっさい中央にあげず、県下では秩禄処分もなく、太陽暦も採用せず旧暦を守り、士族は相変わらず刀を帯び、ひとたび西郷隆盛の命令が下ればただちに戦闘状態に入れるよう組織され、訓練されていました。つまりこれは、日本国内において事実上中央政府から独立した政権、鹿児島国だったといっていいでしょう。そしてそのなかで、西郷自身はなんの役職にも就かず、それらを超越した最高権威として君臨していました。


 彼らは、熊本・秋月・萩の乱にも、なお自重して動きませんでした。おそらく、西郷が軽挙を抑えていたのでしょう。しかし、中央の政権に一切従わない彼らを、政府は放っておくわけにはいきませんでした。政府・内務卿大久保利通は、内乱を避けるべく鹿児島県士族に限って特別の優遇をしてきましたが、それに対する木戸孝允らの反対は強く、鹿児島県のみを特殊あつかいすることに対して、大久保を避難する声が高まります。さすがの大久保もこの声を無視するわけにはいきませんでした。


西郷どん 第45話「西郷立つ」その2 ~西郷暗殺計画~_e0158128_21495406.jpg各地で不平士族の反乱が続いた明治9年(1876年)の暮れ、警視庁大警視(現在の警視総監)の川路利良は、警視庁二等少警部の中原尚雄ら二十数名の警察官に対して、墓参りや母親の看病などの名目で鹿児島に帰省し、西郷らの動向を探るよう命令を下しました。中原らは年が明けた明治10年(1877年)1月に相次いで鹿児島に帰り、私学校の生徒たちに接近します。しかし、鹿児島ではこの前年より西郷を暗殺しようとする者が政府から送り込まれているとの風評があり、そのため、私学校党は西郷の身辺警護を強化していました。そんな最中での中原らの帰国だったので、私学校党は最初から中原らを疑っていたようで、中原らの密偵活動は、なかなか上手くことを運ぶことができませんでした。


 そこで中原は、谷口登太という旧知の友人を味方に引き込んでスパイにしようとしますが、この谷口が、実は私学校党から送り込まれた逆スパイでした。そうとは知らない中原は、谷口と酒を交わした際につい心を許し、自身の帰郷の目的は私学校の瓦解工作の任であること、また、西郷が挙兵の動きを見せれば踏みとどまるよう説得にあたり、もし聞き入れられなければ、「刺し違えるより外ない」との決意を打ち明けました。現存する中原の口供書には、こうあります。


「万一挙動ノ機ニ立至ラハ、西郷ニ対面刺違ヘルヨリ外仕様ハナイヨトノ申聞ニ随ヒ居候」


 川路から、万一の場合は西郷と差し違えよと命じられていたというんですね。また、谷口の報告書には、こうも記されています。


「第一西郷隆盛ヲ暗殺セハ、必ス学校ハ瓦解ニ可至、其他、桐野、篠原ノ両士迄斃候得ハ、其跡ハ至テ制シ安ク、尤モ西郷ニハ同人知己ノ事故、面会ヲ得テ可刺殺覚悟ニ候、勿論此人ト共ニ斃レ候得ハ、我身ニ於テハ不足ハ無之」

「まず西郷を暗殺する、そうすれば必ず私学校は瓦解する。つづいて桐野利秋、篠原国幹の両名を斃せば、あとは制しやすい。自分は西郷と面識があるから、面会して刺殺する覚悟である。もちろん、西郷とともに斃れれば、我が身において不足はない」


 これらの供述や報告書を鵜呑みにすれば、政府による西郷暗殺計画は実際にあったと判断できますが、しかし、これらは私学校党による激しい拷問を受けての供述であり、どこまで事実と見るかは判然としません。実際、中原は西南戦争の終結後、供述は拷問によって強要されたものだとして全否定しています。一説には、中原らが帰国の理由を「視察」のためと供述したものを、私学校党がわざと「刺殺」と読みかえて挙兵の名義としたとの見方もあります。つまり、決起するためにでっち上げた捏造だったということですね。これも、いまとなっては確認のしようがありませんが、ただ、一概に邪説だとして片付けられない側面もあります。それは、ポリスと私学校党の関係が背景にありました。


 私学校党の多くは元近衛兵で、西郷と同じく城下士の出身でした。一方のポリスたちの多くは、外城士(郷士)の出身でした。旧藩時代、薩摩藩では城下士が外城士を見下し、そのため、外城士は城下士を激しく憎んでいました。そんななか、西郷は外城士に対しても心配りをする人物だったといいますが、とはいえ、西郷とて当時の封建社会における例外ではなく、城下士に対する態度に比べれば、外城士への態度はいくらかは落ちました。そんな身分差別に対する不満、そして西郷との関わりの厚薄が、そのままこのときのポリスと私学校党の対立の根底にあったことは否定できません。


 西郷の暗殺計画が本当にあったのかどうか、仮に事実だったとして、それは川路利良の独断だったのか、あるいは、その背後に大久保利通の指示があったのか、いまとなっては明らかにはしえません。しかし、この報告を受けた西郷は、これを事実だと受け止めたようでした。そして、時を同じくして、もうひとつ、挙兵の実質的導火線となった事件が発生します。私学校党による弾薬庫襲撃事件ですね。続きは明日の稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-04 14:21 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2018-12-04 15:27
戊辰戦争後の論功行賞では、西郷は上士に恩賞を出すために下士の禄をさらに削ったと言われますよね。勝ったからと言って他の領地をとったわけでもなく、困った末のことだったのでしょうが、西郷だってきれいごとばかりではどうにもならないということもあったのでしょう。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-12-05 14:07
> heitarohさん

そうなんですね。
それは知りませんでした。
そもそも戊辰戦争直後の西郷に、そんな実権があったのでしょうか?

でも、西郷は自身の賞典禄2000石の大半を鹿児島の賞典学校設立に充てたといいますし、大久保は、賞典禄の受け取りを再三辞退し、最終的には半分を返上して半分を賞典学校設立に拠出していますよね。
その点、旧大名たちは何の遠慮もなく賞典禄を受け取っていたようですから、やはり、西郷や大久保らは、きれいごとばかりではどうにもならない分、せめて自分の身を真っ先に削るという潔さはあったのでしょう。

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