西郷どん 第45話「西郷立つ」その3 ~弾薬庫襲撃事件~

昨日の続きです。

 西郷隆盛暗殺計画が持ち上がる少し前、政府内では鹿児島の不穏な動向に対処すべく、ある計画を立案します。その計画とは、鹿児島の兵器弾薬製造所を大阪へ移すというものでした。もちろん、これは鹿児島での反乱の発生を視野に入れた緊急対策でした。この製造所は、かつては薩摩藩の弾薬庫でしたが、維新後は政府軍の管轄下になっていました。国のものである以上、政府がこれをどこに移そうが鹿児島県には関係のないことですが、実際には、この当時の士族たちには、これが日本国の所有物だとする認識が薄く、また、たとえ国のものであったとしても、それを鹿児島から遠ざけようとする行為は、政府が私学校党軍事的な敵として認めたことになり、この状況で武器弾薬の移設を行うというのは、いたずらに私学校党の感情を刺激して挑発することになりかねないとして、海軍大輔の川村純義が激しく反対し、いったんは中止となっていました。しかし、鹿児島に潜入していた警視庁の密偵から私学校党の不穏な動向が伝えられると、政府は、武器弾薬が奪われるのを防ぐべく、夜中に製造所の武器弾薬の搬出を開始しました。


 ところが、この情報はすぐさま私学校党の耳に入り、これに挑発された私学校党二十数名が、明治10年(1877年)1月29日夜に草牟田にあった陸軍の弾薬庫を襲撃銃砲と弾薬約6万発を奪取しました。さらに翌日の夜には、約1000人もの私学校党が再び草牟田の陸軍火薬庫と磯海軍造船所内にあった弾薬庫をそれぞれ襲撃し、多量の武器弾薬を掠奪します。


 ドラマでは、この弾薬庫襲撃事件に私学校幹部の桐野利秋篠原国幹が関わっていたかのように描かれていましたが、実際には、このとき桐野ら主要幹部のほとんどが鹿児島城下を不在中で、西郷に至っては、鹿児島城下から遠く離れた大隅半島最南端の小根占で猟を楽しんでおり、事件は血気に逸る若者らの暴発だったようです。この幹部不在という状況が暴発を招いたともいえるかもしれませんが、いずれにせよ、事件の報を受けた桐野と別府晋介が、それぞれの在所から篠原の居宅に駆けつけ、善後策を協議した末、西郷に報せるべく辺見十郎太を小根占まで走らせました。


 事件の報告を受けた西郷はたいそう驚き、「しまった!」とつぶやいたといいます。そして辺見に対して怒気を発し、まるで辺見が火薬庫を襲った張本人であるかのごとく、「何事、弾薬などを追盗せえ!」怒鳴ったと伝えられます。このときの西郷の「しまった!」という言葉が、後世に西郷自身は挙兵に積極的ではなかったとされる根拠となっています。しかし、歴史家の家近良樹氏は、西郷は決起して政府を転覆させる野心を持っており、そのタイミングを窺ってはいたが、まだ機が熟していないと考えていたため、「しまった!」という言葉を発したのだろうと説かれています。いずれにせよ、西郷という人は多くを語らないため、その真意をうかがい知ることは容易ではありません。


 e0158128_21591928.jpg2月3日に鹿児島に戻った西郷は、2月5日、私学校内で幹部および分校校長ら200名たちとともに今後の対策を話し合いました。その席では挙兵論自重論の双方が激論を交わし、別府晋介や辺見十郎太らは問罪のための即時挙兵を主張しますが、慎重派の永山弥一郎河野主一浪らは、兵を挙げるのではなく西郷と桐野と篠原らが幹部のみが非武装で上京し、中原尚雄の西郷暗殺計画の供述書を持って政府に詰問すべしと主張し、一時はその方針に決まりかけます。しかし、ここで、それまでずっと黙っていた桐野が発した一言で、すべては一蹴されました。


「命が惜しいか!」


 この言葉は、勇敢さこそ第一の誉れとする薩摩隼人にとって最も屈辱の言葉であり、すべての議論を無にしてしまう一言でした。さらに篠原国幹が「議を言うな」と一同を黙らせ、最後に桐野が「断の一字あるのみ、旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案。これですべてが決しました。あとは、西郷の裁断を仰ぐのみ。桐野から裁断を求められた西郷は、あの有名な言葉を発します。


e0158128_15131310.jpg 「おいの体は皆に預けもんそ」


 この言葉は、西郷の息子である西郷菊次郎が隣室でふすま越しに聞いたと言われていますが、それが、いつ誰に対してだったかがよくわかっておらず、果たしてこのときの言葉だったかどうかも定かではありません。いまとなっては確かめようがありませんが、いかにも西郷らしい言葉といえます。この言葉も、先の「しまった!」という言葉同様、西郷は挙兵に対してあくまで受け身であり、決して本意ではなかったと言われる根拠となっています。西郷は挙兵には反対だったが、ことここに至っては戦は避けられず、弾薬庫を襲撃した私学校生たちを見捨てることはできず、彼らに身を任せた、と。実際のところ、どうだったのでしょうね。


 かくして西郷らは決起しました。その大義名分を記した通知書には、「今般政府に尋問の筋これ有り」と記されていました。「尋問の筋」とは、言うまでもなく中原尚雄が供述した西郷暗殺計画だったでしょう。しかしながら、後世から見れば、この動機はあくまで西郷個人の命を問題とする私怨いえ、決起の大義名分というには稚拙だったと言わざるを得ません。もし、これが、当時の士族一般が不平を抱いていた大久保政権の在り方を問うというかたちで決起していれば、あるいは、この後の事態は大きく変わったかもしれません。これが、もし桐野や篠原らが主導した大義名分だったとすれば、やはり、彼らに身を任せたのが失策だったということでしょうね。立つなら、西郷自身が主導すべきだったんじゃないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-05 15:14 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

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