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江戸城を歩く。 その4 「皇居外苑」

「その3」の続きです。

桜田門を出て凱旋濠沿いに東へ歩きます。

打込み接ぎの高い石垣が続きます。


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凱旋濠と日比谷濠の間の内堀通りを北上すると三の丸に入ります。

このあたりは、現在「皇居外苑」と呼ばれ、公園整備されています。


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内堀通り沿いに説明板が設置されていました。


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皇居外苑に中心に、大きな騎馬武者の像があります。

南北朝時代の武将、楠木正成の像です。


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わたしの住む神戸のまちにも、これとそっくりの楠公像があります(参照:太平記を歩く。その91「湊川公園」)。

神戸は湊川の戦いの地であり、楠公に縁の深いまちなので像があっても違和感はありませんが、江戸城となんの縁もない楠公像がなぜここにあるのか。

それは、戦前、楠公さんが国粋主義の忠臣の象徴として崇められていたからに他なりません。


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言うまでもなく、楠木正成は後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に忠義を尽くし、勝てる見込みのない戦いに自ら身を投じ、討死した人物です。

江戸時代、水戸藩を中心とした尊王思想が盛んになると、天皇に忠義を尽くした楠木正成は英雄視され、天皇に反旗を翻した足利尊氏逆賊とされました。


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明治44年(1911年)、南朝、北朝のどちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」が起き、「南朝正統論」国策として進められると、教科書では「南北朝時代」が「吉野朝時代」と改められ、南朝の正統性が国民に浸透させられていきます。

そんななか、楠木正成はその象徴的存在として扱われ、それがやがて「七生報国」などのスローガンを生んで政治利用され、やがてその思想が、日中戦争、太平洋戦争の戦火になだれ込んでいくことになるんですね。

この像は明治37年(1904年)に建てられたものだそうです。

皇居前に楠公像を建てたというのは、どのような政治的意図があったのか。

想像するに難しくありません。


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わたしがここを訪れたとき、大勢の中国人観光客がこの像の前で記念撮影をしていました。

わかってるのかなぁ・・・この像の人物のこと。


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第二次世界大戦後、軍神扱いされていた広瀬武夫の像がGHQによって撤去されましたが、この像はよく撤去されなかったですね。

いまとなっては、ここに楠公像があるのは、違和感しかありません。

徳川家康の像だったら、何の問題もないですけどね。

「その5」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-07 23:26 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

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