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西郷どん 第46話「西南戦争」その1 ~西郷の挙兵~

 明治10年(1877年)2月15日に挙兵した西郷軍は、出水街道と大口街道の二道に分かれて東上を開始。そしてその総大将である西郷隆盛も、2月17日に鹿児島を発ちます。このとき、南国の鹿児島では珍しい50年に一度と言われた大雪が数日前から降り続き、町を白く染めていたと伝えられます。西郷軍は出陣するにあたって7大隊を編成し、篠原国幹、村田新八、永山弥一郎、桐野利秋、池上四郎、別府晋介に、それぞれ大隊長として指揮をとらせました。そこに集まった兵は、総勢1万3千人を超えたといいます(もっとも、そのすべてが自ら望んで集まったというわけではなく、半ば強制的に集められた兵も数多く含まれていましたが)。


 西郷どん 第46話「西南戦争」その1 ~西郷の挙兵~_e0158128_15131310.jpgドラマでは描かれていませんでしたが、西郷は鹿児島の町を出て島津久光の暮らす磯の邸の前を通過するとき、雪の積もる門前にひざまずき、両手をついて頭を下げたと伝えられます。この時期、久光は少しずつ西郷を理解する姿勢を示し始めていたようですが、西郷自身の久光嫌いは相変わらずだったといい、先の政変で帰郷してからも、ほとんど久光の前に顔を出すことはなかったといいます。しかし、この度の出陣にあたっては、島津家の旧臣を大勢率いていく以上、武士の忠義として筋を通したのでしょう。あるいは、少し穿った見方をすれば、西郷軍のなかには久光を主筋として崇拝している者たちも多数おり、西郷としては、配下への統率上、このようなパフォーマンスも必要と考えたのかもしれません。


 西郷軍の行軍が開始されると、政府はすぐに対応策をとります。東京よりも鹿児島に近い京都と大阪に対策本部を置き、大久保利通も京都に移動しました。そして西郷が鹿児島を発った2月17日に会議が開かれ、有栖川宮熾仁親王鹿児島県逆徒征討総督に任じて勅使として鹿児島に派遣することが決まります。これは、西郷と久光が反乱軍に与しないよう説諭するためのものでした。この時点では、まだ西郷が挙兵に加わっているかどうかの情報が政府に入っていなかったんですね。


 西郷どん 第46話「西南戦争」その1 ~西郷の挙兵~_e0158128_15131733.jpg大久保も西郷が軽々しく暴挙には与しないだろうと考えていたようで、2月7日付で伊藤博文に宛てた書簡のなかで、「仮令西郷不同意にて説諭を加ゆるにしても、到底此度は破れに相違なく候」と見たうえで、「此節、事端を此事に発しきは誠に朝廷不幸の幸と、窃かに心中には笑いを生じ候くらいにこれ有り候」と記しています。つまり、私学校党から西郷を切り離して、過激輩たちを追討できれば、むしろ喜ばしいことだというんですね。これまで中央政府に服さず、独立国のように振る舞ってきた鹿児島県士族を、これを期に叩き潰して改善するチャンスだと捉えていたようです。自身の理想のためには故郷も旧友も捨てる。さすがは信念の人・大久保、非常なまでの冷徹さです。


 「おいが政府じゃ!」


 と言ったかどうかはわかりませんが、そういう気概はあったでしょうね。


 西郷どん 第46話「西南戦争」その1 ~西郷の挙兵~_e0158128_20170202.jpg決起した西郷軍を全面的に支援したのが、鹿児島県令の大山綱良でした。西郷とは最も古い付き合いの大山でしたが、維新後は久光の側近として鹿児島県の大参事、権令となり、西郷、大久保らの推し進める新政府の改革を批判する立場をとっていました。しかし、西郷の帰郷後は私学校設立などを積極的に支援し、このたびの決起においても援護活動を行います。大山は西郷が立つとすぐに太政大臣・三条実美と右大臣・岩倉具視に宛てて書面を発し、西郷に刺客を差し向けたことを問い詰め、これを「政府の御失体」と糾弾しています。さらに、官金を軍資金として西郷軍に送金するなどの支援をしていたため、その罪を問われて逮捕され、西南戦争終結後、長崎において斬首されます。西郷、大久保とはまた違ったかたちでしたが、大山もまた、最後まで信念を貫いて戦う侍だったんですね。

 明日の稿につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-10 22:14 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

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