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西郷どん 第46話「西南戦争」その2 ~熊本城攻防戦~

 昨日の続きです。

 東上を開始した西郷軍は、連日の雪のためにその行軍は難行しましたが、明治10年(1877年)2月21日、熊本城下に到着しました。当時、熊本城には日本陸軍の熊本鎮台が置かれていました。ここで西郷軍は軍議を開き、全軍をもって熊本城を攻撃するか、一部の兵で城を攻撃し、残りはこのまま熊本城を捨て置いて北上するかが話し合われます。冷静に考えれば、彼らの目的が上京して政府に詰問するためにあるならば、熊本城の攻撃に固執する必要などなかったはずなのですが、なぜか、このとき彼らの下した決断は、全軍上げての熊本城攻撃でした。ドラマでは、政府が彼らを賊軍とみなして征討令を発したため、戦わざるを得なくなったという設定にしていましたが、たとえそうだとしても、熊本城に固執する理由はどこにも見当たりません。なぜ熊本城攻撃に決したのでしょう。


 西郷どん 第46話「西南戦争」その2 ~熊本城攻防戦~_e0158128_21591928.jpg一説には、軍議の席で桐野利秋が、「熊本城など、この青竹棒でひとたたきでごわす。」豪語し、慎重派の意見を一蹴したと言われています。このエピソードが事実かどうかはわかりませんが、この当時、鎮台兵の大半が徴兵制で集められた元農民たちで編制されていました。一方の西郷軍は、元薩摩藩士を中心とするサムライ集団で、そのサムライたちのなかでも、薩摩隼人の強さというのは戦国時代から江戸時代を通してほとんど伝説的に信仰されており、また、その強さが本物であることを、戊辰戦争における戦功で実証していました。また、薩摩隼人は兵としての強さだけではなく、その勇敢さにも誇りを持っていました。そんな彼らからしてみれば、百姓兵が守る熊本城など、桐野に言われるまでもなく、青竹一本でひとたたきと思っていたに違いありません。


 西郷どん 第46話「西南戦争」その2 ~熊本城攻防戦~_e0158128_13192830.jpgところが、事はそう容易くはありませんでした。当時、熊本鎮台司令長官は土佐出身で陸軍少将の谷干城で、作戦立案に当たる参謀長は、西郷らと同じ薩摩出身の陸軍中佐・樺山資紀でしたが、彼らは3千人を超える兵士と籠城し、かつ、要所に地雷を埋めて西郷軍が近づけないようにするなど、徹底して守りを固めていました。また、西郷軍が熊本入する少し前、熊本城内で火災が起きて天守が焼け落ちており、さらに、城下町の家屋にも燃え移って、町は焼け野原になっていました。この火災の原因は不明ですが、西郷軍の城攻めを想定して、攻められにくいように鎮台側が自ら放火したとの説が有力です。そんなこともあって、西郷軍は熊本城攻撃に想定外の時間を取られることになります。


 2月22日に始まった熊本城への攻撃は、3日間に渡って続けられましたが、鎮台方に決定的なダメージを与えることはできませんでした。結局、西郷軍は方針転換を迫られ、一部の兵士を熊本城攻城戦に残し、本隊は小倉方面より南下してくる政府軍と対戦するため、熊本の北にあった高瀬方面に向かうことになります。そして、この高瀬の地で、西郷隆盛の末弟の西郷小兵衛が戦死を遂げることになります。


 西郷どん 第46話「西南戦争」その2 ~熊本城攻防戦~_e0158128_15131310.jpgその後、熊本城攻城戦は一進一退を繰り広げながら、4月8日には鎮台方の部隊が西郷軍の包囲を突破し、さらに、14日には陸軍少佐の山川浩らの援軍が熊本城に入城したため、攻防戦は終焉をみました。結局、西郷軍は50日余りも城を包囲しながら、熊本鎮台を落とすことができませんでした。その敗因は、政府軍との武器の差や、谷ら鎮台司令部の用意周到さも挙げられますが、一番の理由は、桐野らの鎮台兵に対する「侮り」だったのではないでしょうか。桐野はかつて熊本鎮台の司令長官を務めていた時期もあり、熊本城を知り尽くしているという点でも、この城攻めを甘くみていました。そして、その「甘く見ていた」という点は、西郷にもありました。西郷は自身が立てば、自身の声望によって多くの不平士族が立ち上がり、民衆は支援し、この熊本城も、戦わずして明け渡されるだろうと考えていた節があります。そんな西郷や桐野の甘い見通しが、彼らの死地に導いたといえるかもしれません。

 明日に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-11 22:58 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)

 

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