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西郷どん 第46話「西南戦争」その3 ~田原坂の戦い~

 昨日の続きです

 高瀬の戦いのあと、西郷軍は福岡方面から南下してくる新政府軍を迎え討つために北上し、やがて田原坂で激突します。この戦いは、西郷軍、政府軍双方に多くの死傷者を出す西南戦争一の激戦となりました。3月4日、この田原坂にほど近い吉次峠の激戦で、西郷隆盛の片腕だった一番大隊長の篠原国幹戦死しています。


 西郷軍は、当初、徴兵制によって徴収された農民を中心とする政府軍の兵士を馬鹿にしていましたが、政府軍には最新式のスナイドル銃が配備され、上官の指示にもよく従う統制のとれた政府軍兵士の攻撃に、思わぬ苦戦を強いられることとなります。一方の西郷軍は、旧式のエンフィードル銃が主力でした。スナイドル銃は元込め式1分間に6発発射できたのに対し、エンフィードル銃は1分間に2発しか発射できませんでした。加えて、この戦いの間は雨天の日が多く、先込め式のエンフィードル銃は雨に弱く、武器の差は圧倒的に政府軍が有利でした。


 ただ、そうしたなか、政府軍の兵士に大きな恐怖心を与えて大混乱に陥れたのは、西郷軍兵士による抜刀しての斬り込みでした。西郷軍の兵士のほとんどは元薩摩藩士であり、幼い頃から示現流剣術で鍛えた強者揃いでした。一方、政府軍の兵士は士族以外の者が多く、剣術の心得のない者が圧倒的でした。彼らにしてみれば、銃弾の雨のなかを怯むことなく抜刀して突撃してくる薩摩兵は、恐怖以外の何物でもなかったでしょう。周章狼狽した政府軍兵士たちはたちまち戦意を失い、命を落とす者が続出します。


 西郷どん 第46話「西南戦争」その3 ~田原坂の戦い~_e0158128_21495406.jpgこれに対して政府軍は、薩摩兵ひとりに対してスナイドル銃を持った兵士5、6人で応戦し、間断なく銃弾を浴びせるという作戦に出ますが、これも計算どおりにはいきませんでした。そこで、警視庁大警視でありながら西南戦争勃発後は陸軍少将を兼任し、このとき警視隊で組織された別働第三旅司令長官の任にあたっていた川路利良は、警視隊のなかから特に剣術に長けていた110人を選んで「抜刀隊」を編制し、西郷軍の抜刀攻撃に対抗させました。目には目を、刀には刀を、ということですね。その中には、旧会津藩士も含まれていました。彼らは今でも戊辰戦争時に賊軍の汚名を着せられた恨みを持ち続けており、このとき西郷軍相手に「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫びながら斬り込んでいったといわれています。抜刀隊のあげた戦果は絶大でした。


西郷どん 第46話「西南戦争」その3 ~田原坂の戦い~_e0158128_22143981.jpgしかし、この川路が立案した抜刀隊の編制には、当時、政府軍の事実上総指揮官だった山縣有朋は反対だったといいます。陸軍卿兼参議だった山縣は、徴兵制度を最も推進してきたひとりでした。その徴兵制度に反発したのが私学校党であり、全国にいる不平士族たちです。いま、ここで元士族だけを集めた抜刀隊を編制するということは、これまで推し進めてきた国民皆兵の政策を、自ら否定することになる。山縣の頭の中では、戦術も政治だったんですね。ただ勝てばいいというわけではない。徴兵制度による兵でサムライ集団を破ってこそ、真の近代軍制が確立されるという思いだったのでしょう。しかし、理想を追って戦に負けたら本末転倒な話で、川路の説得に山縣はこれを渋々許したといいます。


 この抜刀隊の働きもあって、戦局は目に見えて政府軍に有利となっていきました。それでも頑強な抵抗を見せる西郷軍に対して、政府軍はさらに第三旅団、第四旅団を投入し、兵力と兵器の差で西郷軍を圧倒しました。このとき政府軍は1日あたり平均32万発の弾丸を敵陣に撃ち込んだといい、多い日には60万発を超えたといいます。これは、日露戦争における旅順攻撃時の倍の数字でした。この当時の政府の弾丸製造能力1日12万発だったといいますから、足らずは外国からの輸入でまかなっていたようです。これに対して西郷軍は、弾薬不足に悩まされ、着弾した弾丸を拾って鋳造したり、鍋や釜を溶かして作った手作りの弾丸を使用したといいます。これほどの兵力の差がありながら、田原坂の戦いは約3週間近く続いたのですから、薩摩兵恐るべしといえるでしょうか。

 明日の稿に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-12 23:59 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)

 

Commented by heitaroh at 2018-12-13 19:31
最近、先輩からの強いお勧めで、石光真清という人が書いた「城下の人」というのを読まされたのですが、それによると、薩摩軍は鎮台兵のように整然と行進するのではなく、ドラマのあんな感じで、三々五々、遠足のような感じで行軍していたようですね。
途中で、誰か話しかけてきたら、世間話に応じたりして。
まあ、勇猛が前提の薩摩軍ならではだと思いますし、負けると思ってませんから、余裕があったのでしょうが。
福岡藩などでは、そういうわけにはいかなかったでしょうね。
脱走防止のため、監視の将校を一定距離ずつに配置していたのではないかと思いますが。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-12-14 01:09
> heitarohさん

へぇ~、そうなんですね。
それは知りませんでしたが、でも、なんとなく想像できますね。
余裕ということもあったのでしょうが、元来の南国人的おおらかさ、大雑把さといえるかもしれませんね。
薩摩人とて、皆が皆、勇敢さが一番の誉れと思っていたわけではなかったでしょうが、仮に脱走兵が出たとしても、嘲笑するだけで捨て置いたんじゃないでしょうか。
薩摩人気質的には、そういう臆病者は無用、脱走するようなやつはいらない、といった気分だったんじゃないかと。

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