江戸城を歩く。 その6 「本丸」
「その5」のつづきです。
中雀門を入ると、本丸跡です。
現在は芝生広場になっていますが、かつてはここに本丸御殿がありました。
御殿など建物は、長い江戸時代のなかで何度も焼失しては再建されてきましたが、文久3年(1863年)の火災で焼失し、その後は再建されませんでした。

御殿は南から表・奥・大奥の三区域から成り、江戸時代初期にはその奥に天守がありました。
その広さは約3 万4540 坪に及んだそうです。
表は政務を行うために政庁で、多くの役人が詰めていました。
奥は将軍の生活の場で、今で言うところを首相官邸のような場所でした。
そして、大奥は御台所を中心とした奥女中生活の場で、全盛期には400人ほどの奥女中が居住していたといいます。
あの春日の局や天障院篤姫が暮らした場所ですね。

表と奥には明確な境界はなかったそうですが、奥と大奥は厳重に区画され、御鈴の廊下だけで繋つながっていました。
時代劇で将軍様が大奥に渡るときに通る、あの廊下です。

本丸最南端にある富士見櫓です。

かつて江戸城には多くの櫓がありましたが、現在残っているのは、西の丸の伏見櫓、三の丸の巽櫓、そしてここ本丸の富士見櫓の3つだけです。





富士見櫓は明暦の大火(1657年)で天守とともに焼失しましたが、その後、再建。
天守が再建されなかったため、富士見櫓が天守の代用として使用されたと伝わります。
江戸時代、将軍がここから富士山や品川の海を眺めたと伝えられます。

富士見櫓はどこから見ても同じ形にみえるために、俗に八方正面の櫓とも呼ばれているそうです。
もっとも、現在は柵で囲われていて、1角度からしか見られませんが。

富士見櫓から北に向かってしばらく歩くと、「松の大廊下跡」と刻まれた石碑と説明板があります。
あの忠臣蔵でお馴染みの松の廊下ですね。

時は元禄14年3月14日(1701年4月21日)、ここ江戸城松の廊下において、播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が、高家旗本の吉良上野介義央に斬りつけるという刃傷沙汰がありました。
浅野内匠頭は即日切腹のうえ、お家はお取り潰し。
かたや吉良上野介はお咎めなし。
これが、翌年の赤穂浪士討ち入りにつながっていくんですね。

この刃傷沙汰の経緯については、講談などで語られてきた悪玉=吉良のエピソードとは、実際にはずいぶん違っていたようです。
その話をしだすと長くなるので、いずれまた、別の機会に。

松の大廊下跡から少し北上すると、本丸西側に面した富士見多聞があります。
江戸城には多くの多聞がありましたが、現存するのは、西の丸の伏見櫓の左右にある多聞と、ここ本丸の富士見多聞だけです。
富士見多聞は、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火(1657年)のあとに建てられたと考えられています。

富士見多聞のなかは見学できます。

窓です。

富士見多聞のすぐ近くにある石室です。
説明板によると、石室の用途は諸説あるそうですが、かつてこのあたりは大奥があった場所だそうで、大奥用の調度などの避難場所と考えられているそうです。

本丸広場の桜並木。
ここを訪れたのは4月7日で、まだ桜が残っていました。
曇っていたので、写真ではあまり綺麗には見えませんが。
その向こうに見える石垣が、天守台です。
「その7」では、その天守台に向かいます。
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by sakanoueno-kumo | 2018-12-14 23:59 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)